つろーがの金峯山に初登頂 [シェブロン県の話]
だがしかしだ、きんぼうさん だと残念ながら変換してくんないので私の頭の中ではきんぽうざんになっている。そんで、つろーがの人に『ぼ!!』って怒られます すいません。
名前の由来はここではやらんぞググってね!
そっちは完全に登山装備で挑まないとアレな感じだと思うけど、一応金峯山は石段とかあるし標高高くないし、なんちゃって山登りスタイルでも(冬山とかでなければ)大丈夫そうだな……
という事で、登ってきました!初登頂。金峯山自体にはキャンプやら何やらで結構来た事はあるんだけど、山頂まで行った事はなかったのですわ
ここはまだ序盤で石をコンクリで固めた『階段』ですが、その後石と杉の根を利用したワイルドすぎる階段に変わっていきます。段差は相当高いので、足が上がらない人はガチ登山スタイルじゃないと無理です。すれ違う人達は多分、ガチ登山グループばかりで殆どの人がトレッキングポール?握ってました。麓の神社には登山者名簿も用意されている。よく見るとアイゼンが落ちている……。
しかし、中の宮への道は狭くてめっちゃ山登りですぞ!
見てるとみんなボトルに汲んでそのまま飲んでました。硬度は20前後の軟水です。
この『閼伽』(あか)とはサンスクリット語でアルギャ(argha)から来ているもので仏教において仏などに供養する水の事であるらしい。調べた。仏に備える水をくむ井戸、閼伽井という事らしい。ふぅん、じゃぁ金峯山は神様じゃなくて仏信仰の山なのか。というか、その辺り難しいのよね、昔は神仏一緒に奉ってたものが別々にされたり、片方遺棄されるにあたって合祀されたり。庄内地方のその辺りの事情が書いてある本を何種類か借りて読んだんだけど、マジ難しくて流し読みをしてリベンジマッチだなと思っている。
中の宮から、山頂まではところどころ息を整えながら登って1時間くらいでした。案内的には40分くらいって書いてある。
メイドイン奈落の所為で『くっ 上昇負荷が!』みたいな気分で山を登れます。実際、まぁあそこまで地獄じゃないけど登って行くときと、下っていく時では圧倒的に登る方が負荷がある気がする。
緩やかに登って行くわけではなく、階段で急激に登るからかもしれない。月山登った時はこんなつらくなかった気がするんだけどあれ、元気いっぱいな頃だからなぁ……。
羽黒山と比べたら圧倒的に登りにくい山です!
階段ったってほとんど自然整形の、杉の根が階段状になっているっぽい感じ とか 申し訳程度に石積んであるとか、そんな感じの膝までの高さまである段差がかなりある。
これ、降りる方が辛いな……と、足はまだ上がる方である為登りながら思いました。
実際降りる時はどうしても手をつかないと危ない箇所がいくつかありました。(とはいえ降りるのにかかった時間は中の宮まで40分くらいです)
地震による被害は微少 [シェブロン県の話]
折しも、55年前の新潟沖地震(1964 6月16日)の記事などが関連する新潟、山形県は庄内地方で取り上げられてすぐのことで、私も揺れがあった時咄嗟にそれを思い出し、
なので、本当であれば『村上(新潟)・鶴岡(山形)地震』にした方が、風評被害などもある程度防げたのではないかと思うのであります。
新潟側は貼ってませんが、地震計の少なさは同じでした。なんでかっていうとこの県境辺り山で、人が殆ど住んでない所なので……
今時、被害について県でひとまとめにすることにどういった意味があるのか。災害支援関係が県単位であるというワケではありますまい。
分かり易くするためにという都合なら、情報化社会においてこれ程怠慢な表記は無いと思ったりもするんですが、どーなんでしょうね……。
しかも去る、平成の大合併で鶴岡(山形)も村上(新潟)も、この人のあんまり住んでない所を全部吸収しております。ぶっちゃけ、今回実被害が出ているのはこの、ちょっと前までは鶴岡でも村上でもなかった所だったりします。
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って書いても文面からして???って感じかもしれませんが、庄内は、庄内(海側)!山形は、山形(内陸)だって事はレキシ的なアレで散々埋め立ててきているのでそっちでガッテンして頂ければ幸いです。
しかし、鶴岡の今回の地震で被害が多く出た温海などの裏っかわ、つまり山の向こうに、まさしく山に囲まれた平地部があってここを『櫛引』と総括するんですが、
ここは、海から山をもって隔てられたところで農作物にとても良い環境です。この櫛引地域では現在、さくらんぼも作っています。
とはいえ、内陸のガチ具合と比べれば微々たるものでしょうな……。
内陸の御友人宅がことごとくサクランボもやってる農家で、5月から6月までのサクランボ事情を聞いているとなんて世界だ、って思ったりもしたものです。
もとより鶴岡側は災害の少ない所なんですよ、死火山である月山があり得ないくらいの霊験を発揮してるんじゃないかというくらい、未曽有と呼べる災害はありません。氾濫する最上川も流れてないしね……。
一つは、今回起きた新潟都の県境沖の地震帯。
十数年前に鳥海山噴火の兆候、とかあったから、それでなんとかガス抜きしてればよいのだけども。
ああまた開けてしまった [シェブロン県の話]
まぁ、いつも見切り発車で構想もへったくれもなくダカダカ文章を打って埋める、それがここですから
とはいえ、まだ過去の遺物たちを全部整理しきってないのでアレなんですが
今現在は秋のマツリ企画にてんてこまいしてます。おっと、やばい今日更新しないといけない用事思い出した……
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わしはすでに三回くらい行きました(年パス会員)
今回、2018年は藩租忠次公(忠次は庄内には来てません、京都で亡くなっております)の鎧が大修復を終えて十数年ぶりに公開された事を記念して、それにちなんだ展示になってます。凄い古いのめっちゃ集まってていいですよ、そのレポも書きたいとこなんですが、さて
今回のウメタテは荘内藩がらみなのでとりあえず、とうらぶの信濃くんの件が一つ。
これが10月に50回目というアニバーサリーを迎えるのです。
で、ガタケット事務局さんはもうそちゃぁもう多忙そうなので、きっと50回記念で何か企画『やってよ』などと期待するのも失礼な話だしそんな『待ち』の状態で参加者たちはそれでいいのか!?
といった感じから一人の勇者が『有志おいわい企画』を提唱、お祭りが勃発。
基本祭りと云われたら踊らなければ損だと思っている(おい)私は軽くこの祭り実行委員会に協力を提示。
と言う感じで裏で色々やってます。
この裏で色々やってる活動が一件。
高畠ワインまつりあるでしょ?東北ハムのオクトーバーフェスもある。実はちょっと、いやかなり……糸魚川の宝石の国展というか鉱物博物館に興味がある。ジョジョ展は残念ながらチケットが完全予約制で、取れなくて断念したが行く気マックスだった。
あと、京都のかたな展がある。
その為、その段取りをしたところで、荘内の京都の縁所はどこであろう?という感じになりました。
そらそーよ、私今レキシ沼どっぷりですからね!!
京都屋敷は絶対あるだろ
……見つけられない。京屋敷跡と云われる地名に残される大名屋敷の中に荘内藩、左衛門尉酒井家の名前はない……。
しかしだ、今調べて私が知る中で酒井左衛門尉が京で縁のある場所は思いつく限りふたつあるのだ。
上京区桜井町、桜井公園付近、八幡宮のあたりだろうと云われています。ちなみに、この八幡宮は源義経が奥羽に出発した所という事になってますが伝承によると色々あるようです。
……もしかして、この屋敷以来ずっと酒井家の屋敷なんじゃないの??
そう思える根拠が一つある。
荘内藩に、西陣織の技術者を京から呼んで絹織物を作らせたという記録があります。中興の祖、酒井忠徳の時の話なのでありえそうな話です。
(ちなみに幕末経て明治に藩士に開墾させて蚕を育て絹を生産したのとは時代の隔たりがありますが、菅さんが絹に目を付けて産業に乗せる土台はすでにあった事が伺えますね。ちなみに忠徳の時に最初に絹織をした家は、長山亭、まちなかキネマという映画館がある付近です。その後現在も稼働している工場は鶴岡市立図書館の近くにあります)
上京区というとあちこちに西陣の名前が見える。実際、このあたりに西陣織を作っていた人たちが多く住んでいたというから記念館などもここにある通り。
忠次から数えて9代目の忠徳の時代まで、もしかすると桜井屋敷を藩邸として使っていたのではないのか??
まぁ、そのうち探してみたいと思っている。
昔は月山だった?鳥海山 [シェブロン県の話]
今、まんまと地元レキシ厨になった私は見境なく色々モロモロの地元本を新旧構わず読み散らしていますが、宗教関係の本だけはなかなか頭に入って来なくて、もっかいちゃんと歴史履修してからリトライする事にしています。まぁ、そこに大物忌神社の事なんかも書いてあって、うへぇ、そうなのかー と言う感じでザックリとは読んだ感じです。
実際、宮野浦には川南自治会という所がある。
周りは杉の木が多くて、計画的に伐採されてる様です。それでも少し、原生林ぽいのが残ってますねぇ、森の中に入ると、何しろ道路は良いのですがちと狭い(先日朝日村の空気祭りにも行ったのですが、あの道より断然に良いくらいの良い)そして、行き止まりなので(目の前鳥海山です)通行する車は少ないと見えて、左右から這い出す草がさらに道を狭くする。
実際トンネルか?と思った遠くに見えた暗がりは、せり出す木々のトンネルでしたった。
このクオリティの水が、鳥海山麓湧き放題。この水で作った米が不味いはずがないし、こに水で作った酒が不味いはずがない。私が大好きな大吟醸しかつくらない楯野川さんとかね!
日本海を望む道の駅で、出てくるお冷の美味さになんじゃこりゃ!うへぇ、うめぇ!ってなった事もありました。鳥海山…偉大なり~。
俵田渡口米の事 [シェブロン県の話]
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でも一年近くずっと悩んできたので、ものすごくすんなり理解できた。
庄内伝統食事情 [シェブロン県の話]
RHさんは最近地元レキシにすっかりアレされているわけですが、
今地元鶴岡生まれの時代・歴史小説家である藤沢周平センセイ全部読みにチャレンジ中です
で、ようやく10巻まできました。まだ半分も読んでないし、読み始めるきっかけになった探している話にもたどり着けていません。
先日、時代物ものである 用心棒日月抄 を全シリーズ読み終わりました。これ、大変面白い。とりあえず藤沢センセイどっから読めばいいの、って聞かれたら今の所用心棒読めばいいよって答えようと思ったくらい。特に一番最初。構成がまずすごい。それでいて読んでめっちゃ面白い。それに比べると最後の狂剣は、これはこれですごい趣のある作風だけど謎解きが多すぎて結構頭がこんがらがる。とはいえ、用心棒シリーズは割とそういうちょっと複雑な構成を持っていてそれが面白いのだから多少、人物多いというのはしょうがないかな。
個人的な好みを言うと、初期と云われるちょっと暗めの話が結構好きだったりします
ま、それはいいとして。
今回タイトルがタイトルなので藤沢周平せんせいの小説面白いはおいといて。
この、東北の小藩モデルが荘内藩と云われる このシリーズから、庄内人として思う事をちょっと書きます。
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藤沢センセイの作品には荘内藩モデルの架空藩『海坂藩』モノがあります。
日月抄は、明確には海坂モノではない…というか、さる小藩、としか出てないけど藩主の名前や役職名からすると若干ウナサカ寄りだ。
でも実際庄内にある寺が出てくる。
そう、四作目の狂剣冒頭から登場する『般若寺』
他、地元レキシを追っかけていると、ウナサカよりかは荘内藩寄りだなぁと思う描写が結構多いのでニヨニヨ出来る。
江戸の屋敷の場所なども、わりと荘内藩の江戸下屋敷に近い。
あと、食い物が完全に庄内 笑
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ところがどっこい!
地元歴史を調べていくと、この時代小説をだね、『歴史小説』として考えてしまうと頭をひねる事になる事案が出てくる。
特に。特に!その、完全に庄内ですありがとうございました、という食についてに、だ!
でもそこは問題ないのだ、何しろ用心棒日月抄、これレキシじゃない。ジダイさんである。時代小説で史実を多少はなぞるけど基本創作ジダイ小説。
歴史に照らし合わせてオカシイところがあっても全然問題はない。
具体的に述べると、庄内の食の歴史は結構古いまま今も残るものが多い、とはいえ!それでも遡って江戸初期から中期まではいかねぇんだ、その頃には無いはずのものがあるぞおおおお!
ジダイモノなんだからそんな目くじら立ててはいけません、でも、背景的に真面目に検証してしまうと、これは忠臣蔵があった時代の少しあと…と言う事になるから完全に江戸前中期だ。
ここから下の箇条書きは、レキシだったらアウトだろうという話です。ジダイさんなら問題はないので、庄内では今もこんなのが大体昔から食べられていますし今も旬なら(旬じゃないとないです)食べれますよ、という事でガッテンしてお進みください。
・民田ナスの漬物 …RHさんちょっとした都合で荘内藩のお漬物事情を調べた事がありました。…違うんです、枝豆(だだちゃまめ)調べてたらたまたま赤カブ(温海カブ)の所にワクテカする話が書いてあって読みすすめてしまっただけなんですが
江戸中期というと大体、荘内藩主的には忠寄~忠徳と考えていいでしょう。荘内入部初代酒井家3代目(ただしこれは忠次から数えて)の忠勝から数え、忠徳は9代目です。
温海カブはこの頃から江戸に漬物用に納入するように、という古文書が残っているそうで、在来野菜種の歴史としては二番目に古いという。
つまり。庄内特有の小丸ナスである民田ナスの歴史はあつみ赤カブ程ではない。
日月抄の時代背景は忠徳よりも前の話になる。この時には、レキシ的にいうと民田ナスの存在は確証されておらず、これらを現在残る様に辛子漬にして当時食べていたかは…微妙なところだ。
・筍(孟宗竹) …作中孟宗竹と書いてあったかまでは忘れてしまったけれど、孟宗竹といえば京都料理です
実は、孟宗竹を食用として庄内は今の産地、湯田川地区で栽培(栽培なんだよね)されるようになったのは…どう遡っても江戸後期から明治頃なのだ…。時代背景的には、ちゃんと調べてはいないけど…この食べるようとして栽培するようになりその方法を先方から習ったというから江戸の話ではあるまい。明治になってからだろう
実はそれまでは、筍は食べていたかもしれないが今の谷定や湯田川のような劇的な旨さのあるものではないのだ。あれは、今は定着したのかもしれないけれどちゃんと『栽培』された孟宗だから美味いのだという
・だだちゃまめ …とまで書いてあったか定かではないけど、とにかく枝豆。茶豆の選別優秀個体より分けが進んだのは調べがついています
完全に明治の話です!ただ、宮城あるいは会津から新潟経由か、どちらかのルートで香茶豆種が入ってきているのは間違いない。でもやはり…江戸中期ではそこまでベタ誉めするほどの洗練されたものではなかった可能性が高い。
・こんにゃく …残念ながら山形県は消費量ナンバーワンのくせに生産量は低く、近年ようやく栽培するようになったくらいで割と生産北限といわれております。
こんにゃくは、『江戸後期』頃にコンニャクイモを粉末化して売るという方法が発案されたため、爆発的に広がったとされる(航路で拡散したものと思うが、発祥は水戸…茨城だったはずだ)
もちろん、京文化直結(北前船で酒田湊が京直結でした)だったので早いうちにこんにゃくは入荷してきているだろう。食文化輸入はすごくあったに違いない。だが、それは!酒田の話で鶴岡まで酒田の『流行』が流れたかはなかなか微妙なのである!酒田に比べて鶴岡は武士の町…いくら藩主が公家に理解あったとはいえ(あったのは忠徳の子供の忠器だし)京料理が鶴岡民まで届いただろうか?
ましてや、時代背景的には光丘以前だから(←)めっちゃ貧乏よ、荘内藩(笑)神田大黒云われるのは江戸中期から後期の話である
・庄内に限った物じゃないけど…『鱈のほっぺ肉乾物』
これな、これ…松前開発が盛んにならないと出現しないんじゃあるまいか…と思える。
江戸中期っていうとようやく西回り航路が開かれ、そっからようやく幕府が松前の資源に目ぇつけ始めて昆布が爆発的に日本国中を圧巻するその直前くらいだと思うんだ…実は昆布が庶民の口に入る様になるのって、結構遅い。
あー、でも鱈って江戸時代でも日本海で捕れたんだろうか?だとしたら乾物は存在するし、それが西回り航路で江戸にあってもおかしくはないなぁ…。でも基本沢山取れるようになったらから喉とほっぺは切り落として別に乾物にしたんじゃないかと思うのだけどどうなのだろう?ええと、この問題はカマボコ生産地を調べなければならない訳だな…太平洋側でもいいのか…?宮城のササカマボコの歴史なんかを調べる必要性がある…と。
・醤油の実 …庄内オンリーではないけれど、北前船の出入りするところで作られているものと見れる。ところで、最近友人から頂いた本に良いデータがありまして…これ、各家で手作り発酵させて食べていた、とウィキセンセイにも書いてありますが。庄内の四次元ポケット事本間家でも独自醤油の実、作ってますね…何時から自家製にしたのやら。
本来醤油屋で搾りかすのカスから作った副産物だったのだが、これが美味しすぎるという事で最初っから醤油のみとして作られるようになったという。
ところで、庄内には味噌屋と醤油屋が少ない。というか基本味噌は自分ちで作るものだった記憶もあるけど…(昔は作っていたよウチも)醤油屋は海側より食べ物に乏しかった山の方が多い傾向があるそうだ
庄内、食い物は海も山もあったので発酵食品や発酵食品添加物による味付けがあまり必要ではなく、そういう都合少なかったのではという憶測は当たっているように思う。
醤油の実は味噌と同じで、もっぱら商家で自家製していたものらしい。
はたしていつ頃から作られるようになったのか…これは昔からあったのかもしれない、と思う。
なぜなら、荘内入部酒井家はもともとは三川武士でお味噌の国の人である。今もってその名残は鶴岡に色濃く、鶴岡の食文化的には『なんでもかんでも味噌汁にしてすする』というイメージが強い(私は酒田人)
味噌は自分家で作る、というのが昔からならば、醤油は醤油屋で作るとしても醤油の実という発酵食品程度は各ご家庭で作ってた可能性は大である。
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他にもあった感じがするけど時間が押してきたのでとりあえずこんなカンジで。
あ、魚については昔から変わってないと思われます 笑 小鯛(一般的にはアマダイの事だそうだ)の話は今も…今はどうかなぁ、漁獲量のモンダイがあるけど、とりあえず昭和年代頃まではガチだった模様。
さて最後に何が言いたいのかというのを。
日月抄はジダイな小説であってレキシモノではない。
藤沢センセイはその線引きが厳しい方とお見受けするので、完全に時代モノと割り切って地元の食べ物の話を出し田に違いないと思っている。だから、以上の事は全くいちゃもんではないのだ。念を押す。ただ、レキシ的に見るとこうだよ、と云う話です。
では問題は何か。
他の作家さんでどうにもレキシに寄った小説を書いた場合、
藤沢センセイが扱っていたから当然と同じように荘内藩の昔からのソゥルフードとして
以上のものを江戸時代に描くのにはチョットマッテ!
しなければならない…と言う事である
うん…とりあえず孟宗がまず引っかかるね…戊辰の時あったかなぁ…微妙だなぁ…ギリギリかなぁ…と思っている。
私の予想では戊辰戦争んトキはまだ谷定も湯田川も孟宗作ってな気がビンビンにするねぇ…
ただ、筍料理は結構昔から食べている文献は古い本間家のアレから拾える。本間家基本質素メシだから(たとえ正月でもだ)正月早々山菜とか食ってる始末だけど、冬の時期に筍ッって事は何か保存食的なものだと思うんだけど…違うのかな?どうなんだろう。昔って筍どうやって保存したんだろうねぇ、やっぱり茹でて塩漬けかな?
食文化って、結構昔の事は分からない事だらけで追えない事が多い。
こんなに身近なのにねぇ、一昔前、何を食べていたのかを追いかけるのが難しいのだ。それだけに、レキシ資料開くだけでは食文化の事は分からない事が多く、全く別の所からアプローチして調べなければならない。
それだけに、結構テキトー書かれているものは少なくないなぁと思う。
まぁジダイさんなら問題ないんだろうけど…。
だからこそ、ジダイ小説からレキシ小説参照してはならない。それだけはチョットマッテ!
時代は簡単にひっくり返るし、正しい事が伝言ゲームのごとく上手く先には伝わって行かない。故に…
地元のレキシ小説と銘打ってある奴……藤沢文学から安易に抜粋して書いてないか?と思う事がちょっとある。
いや、ジダイ小説だとしてもだ。
ちょっと藤沢リスペクトが多すぎるのに気づいてしまってうおおお…ってなってると思いねぇ
ここ数年祭りってる日に休めた試しなし [シェブロン県の話]
この前の新刊的な画像、と思ったけど中の方のスキャンが進んでないので、とりあえず
ツイッターに上げた画像を張り付けてお茶を濁す方向で
表紙詐欺なのは、殿さまだからです
真面目にネタをページ数に収めるのが不可能と察し、急遽上下あるいは上中下編成になった為、
忠徳、描きました。もしこれが3巻編成になったら、私の趣味と好みの問題から次の表紙は巴門になるでしょうな…
酒井家の方本気で調べるとなると鶴岡シティに乗り込まなければ見れない資料が多すぎて、今乗り込むべきか、若干悩んでいる…。毎日行ってる町とはいえ、休日も鶴岡行って図書館入りびたりはどうなの。昼休みにちょっといって本をチョイス出来るとは思えない(結構吟味するタイプ)
返却くらいなら出来るか…。ぬぬぅ…
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次、お題の通り。酒田まつり(ひらがなが正しいそうだ)の本祭りの日に休みになったことがこのところ、ありませんな…ありません。
理由ははっきりしています……締日だから絶対休みにならんのです……
前の職の時は余裕でイケてたんだから、もっとはやく地元にすっころんでおきなよ…(そして前の前の職場でも休みだったことがほぼなく、いつもテレビ中継で祭りを見ていた人)(締日はあんまり関係なかったはずなんだがなぁ…)
あと、実は前住んでたところが中町だったため、祭りになると うるさい という認識が極めて大きく…目の前に住んでいるからむしろ近づかない、という時期が一時期あったりしましたね…。
祭りに行けないので、とりあえず祭りネタでマンガでも描いてやれ、
と書き出しはいいけど途中仕事で忙しい&体調不良で祭り期間中に挙げることが適いませんでした…
解説。酒田まつり、事 山王祭は戦時も欠かさず行われた(ある程度は自粛してつづけたんだそうだ)お祭りであり、上山王と下山王の二社同時開催のお祭りである。
上山王がどこにあるのか実は分からん人もいるのかもしれない。かくいう私も大体このあたり、くらいしかよくわかっていなかった人だ!
上山王は酒田駅から近い方。下山王が日和山の上の奴だ。
酒田は
上町…(城下町、鶴岡の酒井家は酒田の亀ヶ崎城も例外的に持っていて、酒田には城代が置かれている。この亀ヶ崎城下町が上町で、有力商家は伊藤さんである)
下町…(湊町、本町通りの36人衆が収める商業都市の方。もちろん豪商が多い。本間家もこっち)
の二つに大体わかれていて、仲が悪いのかというとまぁ、管轄が違う…というか。気質が鶴岡寄りか自由都市寄りか、みたいな感じだろうか。
社を二つ、あるいは三つに分けて祀ってあるのはよくあることの様だけど、ええと…このあたり調べたんだけどまだ自分の知識に出来てないな、また時間ある時勉強しなおす。
下町は火事が多くよくよく燃えます…。
そんなわけで、下山王は少なくとも2回燃えて焼失しており、現存しているのは本間光丘(三代目)が自力で立て直したものになります。これを立て直したとき、まだあの山はただの『砂山』であり、松なども生えない本当にただの砂山でした。
光丘が立て直した下山王は総漆塗りで、当時はたいそう黒光りして目立つ建物だったろうと想像されております。しかも松林も何もないので遠くからもキラキラ見えた事だろう…。
あの山が日和山になったのは、光丘が勧進した植林事業が軌道に乗り、4代目光道の時代になって防砂の効き目が実感されるようになってから。
湊に入る船をあの松が生え出した砂山の上から皆が見る様子から、日和山となずけられたそうな。
光丘がハデな社を立てたのは、それを目当てに外国(この場合は藩の外を意味するから庄内外から、という意味)から多くの人を呼び、人を呼ぶことで金を落とさせ、経済を回す事で景気をよくするという観光事業の目的だと云われております。
山王祭に山車を出してハデに執り行う様あれこれやったのも、これらと同じ意味があって光丘が推奨した事と云われてます。
なので、個人的にはあの水色とピンクの獅子頭はどーなの と思ったけど
…酒田ソウル的には何ら間違ってはいなかった…と…。
あと、おまけ。
以後、あののんを見ても中の人に叔父さんを期待しないでください。しないでください!!!
もしぇのんの中の人はおまけってこととで外衛(五代目)
歴史は疑う所から入るべし [シェブロン県の話]
なぜなら、…人類は過去を正確に知ることができないからだ。一秒前のの過去から、何が正しかったかなど誰もかれも知りえはしない。そんな科学や哲学を論じるまでもなく、考古学は過去の遺物から最終的に『妄想』を繰り広げるものであり、それがリアリティを伴った想像であり、妄想であるからこそなんかこう、ロマン的な感じに浸れるんだろう。
というわけで歴史はまず疑う所からはじめない事には始まらない。一冊物の本を読んで、その内容だけで事をうのみにはできないし、確実と残されている書物さえ、本当に当時をそのままそっくり書き残したものではあるまい。色々な『可能性』が想像できる。その想像の振れ幅だけ過去に向けた真実は枝分かれをし、その分輪郭はぼやけてあいまいなものだ。
そこをちゃんと念頭に置き、言い聞かせるようにして歴史ジャンルに足を突っ込んでみました。
そのため、第一に調べている本間家関係も伝えるモノの大半は『善きもの』とすることをまず、疑わない事には始まらない。そりゃ、好きで調べてるんだから『善き』ものであることは喜ばしいし歓迎したい所ではある。でも本当にそうだったかなんてもはや誰にもわからないんだ。
悪い存在としての一面を暴くことになったとしても、そしてそういう側面を書くことになっても構うまい…
そんな感じで日々得た情報をもとに、彼らの居た『過去』を妄想する日々でございます。
さてそれで今回はどういう話をしたいかというと どーじんし の方でも発行してこっそり書いた通りなんですが…
古今東西なにからなにまで、ものの見事に間違って伝えられている事をいい加減、ここで正してみてもよいのではないかという事です。
具体的に言うと、シェブロン県酒田の豪商、豪農、と書いてある場合もある。本間家三代目である 本間光丘が一代のうちに築いたという富についての 数字だ。
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本間家についての現代人も無理なく読める資料の第一資料は、酒田市史資料編の5巻と6巻だろう。こちらは本間家が蓄積魔の性格を持っているためがっつり残っている当時(江戸時代中期)からの資料という資料を、抜粋してまとめた資料である。酒田市史において本間家とは分厚い資料本1冊と半分があてられるくらいに『酒田の本間か、本間の酒田か』なのであった。
あと、もう一つの理由として酒田は江戸並に火事が多く浜風強い地域柄一度萌えると類焼被害がひどいのだ。そういう都合、資料の多くが火事で燃えてしまって存在しない中、現在の旧本間家だけは建設されて後一度も類焼していないし地震にもびくともせずに残っていたため、本間家の資料が酒田市史をまとめるに非常に役立っているという事でもある。
この酒田市史資料編5巻は 昭和46年に発刊されている。
以下敬称略をご容赦いただきたい。
斎藤美澄が本間家の蔵に出入りし、資料を整理しつつ明治時代に依頼されて飽海郡史を書いている。斎藤美澄は他荘内藩関係でも色々と書いておられる。
この方が本間家の所持する書類を整理したおかげで今ある資料は成り立っているといっても過言ではないのだろう。酒田市史資料編5を読むとそれがよぉくわかる。
ところでさすがにこの分厚い市史がおいそれ多くの書架にあるわけがない。まぁ、あって庄内いちえんの学校関係、役所、図書館などに収められたものと思われる。で、私はそれが売りに出されているのを見て面倒じゃ、買ってしまえと今一冊手元にあるわけですが…。
それは一地方史を攻めているから出来る事であり、例えば、全国的な何かしらの資料をまとめた本を一冊刊行する事になった出版社は、一ページの記事を書くためにいったいどこから資料を得るか?
さてそれで昭和47年。酒田市にある光丘文庫という古書の類を大切に保管している図書館がございます。こちらの館長をも務めていらっしゃった佐藤三郎が…昭和47年刊行で『酒田の本間家』という比較的手に取りやすいサイズの本を出していらっしゃる。
この佐藤三郎は酒田市史編纂にも関わっている第一人者でございます。
こちらの本も真っ先に手に入れてあるので私の手元にあるわけですが、この佐藤さんの文体は非常に読みやすくかなりの書籍でお世話になっております。
しかし鶴岡(殿が居る方の町)の歴史本なども多くが斎藤美澄と佐藤三郎の手によるものが多く(笑)…まぁ、そういう事から鶴岡側の書籍を読んでみても若干酒田寄りの編纂になっているような気もしないでもないな、と思ったりします…。
それはさておきこの『酒田の本間家』という本は、非常に本間家というのを知るのに良い資料の縮図となっているのだ。これ一冊読めば大体のことは把握できるといって過言ではないだろう。
というわけで間違いなく世の酒田を、あるいは本間家を紹介する本において参照として使われているのはこちらの本なのです。その決定的な事実が、
三代目光丘が一代のうちに築いた財の金額がいくらだったか、というくだりでよーーーーくわかる。
*** *** ***
先だって分かり易く本間家、というコンセプトでどーじんしを出しているわたくし目は、冒頭解説の為の3ページに収める四コマ漫画でおおよそ…1か月くらい…躓いていた。
金銀の価値や米の物価を当時の物価指数をエックス代入して現代にしてどれくらいか、というどんぶりそろばんをはじいていたのでした。そのまま資料のまま金銀で書いたって、わかるわけがない。
現代の価値で説明しなきゃ わかるはずがない。まず俺がよくわからん。実感がわかない。
田地は米一万六千表
貸金金五万四千余り両、銀四万九千余り貫… わからないだろう?
というわけでまず金と銀について調べ、相場を調べ、数え方の単位を調べるわけです。
江戸時代において、金は東日本で使われ銀は主に西日本で使われていました。裏日本まで銀です。つまり、荘内藩のおとなりである新潟までは銀であるらしい…というか、荘内は裏日本所属なのかどうなのか、なんとなく含まれている気もするが、西方貿易『西回り航路』の弁財天(北前船)が活躍し始める頃なので、もしかすると銀なのかもしれない。…少なくとも酒田では。
でも殿様に収めているのは資料の上ではどれも金なので、まぁ、金なんでしょう。
金というのはよいうするに 大判小判の黄金色のアレの事で大判で小判8枚分、小判一枚が『一両』。
江戸時代は今の様な10進法の銭勘定ではございませんで、一両の四分の一の価値ものが『1分』。このあたりにややこしい事情は知ってる。なぜって、創作小説で使ったからだよ(笑)国が違えば通貨も違うだろう、という事で西国は大体江戸時代みたいなに複雑な貨幣を使わせ、南国が10進法のパル貨幣であるからレートがどーのこーのという設定を(以下略)
対し、銀は両とは数えない。匁で数えます。重量換算なのです。そのあたりのなぜナニはここで詳しくやると脱線するから、知りたい人は自分で調べましょう。今はいい時代です、比較的まともな答えがすぐネットに落ちています。マニアックな情報ほどネットの網からは抜け落ちるし、精査がテキトーで信用できませんが 笑
そうやって計算機片手に計算する。数学は、得意教科じゃないけど嫌いじゃないし電卓は仕事の都合叩くので扱いには慣れている。
田地の面積については米の取れ高で書いてあるからちょっと、計算するのが難しい。昔の田んぼでコメが1反からどれだけとれたのか、とかから調べないといけないじゃない。なので、当時のコメの物価を調べておおそよ…10億強であるらしいとはじき出してみた。毎年10億強が本間家の蔵に収められ、この米を大阪などに廻送し相場で利益を得たり、藩にばんばか献納するに使われたわけだ。
さて…そろそろ本題に入ろう。
貸金は現代換算するとこの数値だと…200億を超える…よね?ん?…ん?にひゃくおく超える…?
…200億ってどんな金額なんだ?途方もなくないか?ん?…んんん?????
こんな感じで、もう四六時中この計算式なんか間違ってないかと頭をひねる事一か月。
どうしても腑に落ちない。なにせ、三代目光丘時代って本間家マックスパワーじゃないのよ。一番
いくら本間家がひどかった…じゃなかった、すごかったとはいえ、光丘時代で二百億は無いだろう、というか、ヤバすぎるだろう。おかしい。この数字どーっしてもおかしい。
でも何度見ても佐藤センセの書籍にはそう書いてる。先生も携わっている酒田市史資料編5巻冒頭にもそのように書いてある。
いやまて、でもそう書くからには根拠となる本間家文章があるはずである。原本がどっかにあるはずだ、そう、この資料編5巻のどこかに…!
ということで、到底読むべきものではないこの資料をほぼ読むような作業に入る…。バカだ、そう思うがそれくらいどうしても腑に落ちない数字だったのだ。現代換算してみてますますそう思う。どーじんといえ、歴史なんて嘘っパッチの妄想上等とはいえ、やっぱり出来るだけ史実に近づきたい。
そうして、資料が光美日記などに差し掛かる。これ、フツーに面白いな 笑 これ書籍化したら面白いだろうに本間家関係は大体光丘を説明するに終わるんだよなぁ。
そんな感じで光弥んの時代のところまで差し掛かった時である。
…なんか、見たことのある数字が並んでいるところを発見する。……!??!!??
夜中だった。仕事も忙しい時期だったので、見間違いかと思った。でも、見間違いじゃなかった。
ついに問題の原本である文章を発見したのだ。佐藤先生が先の金額が光丘一代に気付いた貸金金額として繰り返した数字だ。
これは、本間家で資料を集めて残そうと考えた8代目、光弥で調べてまとめた資料が基になっている事を発見。光弥は真澄に資料整理を求めた人物でもあったはずである。戊辰戦争の資料の散逸を惜しみ、集めさせたのも光弥であるし、件の光丘文庫を作ったのもそもそもは光弥である。
もうみつやん様様だ。
彼が自ら纏めた先代らの財産金額というのが品目別に纏められた文章、というのが残っているのな。
これが、そのまま資料編5巻に乗っている。
*** *** ***
さてあと問題は、この光弥の資料が間違っているか、あるいは資料編5巻に乗せた数字が間違っている可能性が残るだけである。
…先に書いた佐藤先生の数字は 田地は米一万六千表 貸金金五万四千余り両、銀四万九千余り貫
ところが、光弥の残した数字は 田地は米一万六千表 貸金金五万四千余り両、銀500匁 四万九千余り銭
そう、そうなのだ!銀と銭(穴の開いた銅貨な)の数字がズレているのだ!!!!
他の数値も見ている感じ…資料編5巻のこのみつやんの数字が誤字、という風には見えない。銀500目、となっている。目、というのは匁の別の言い方なのだ。
大体銀が4万9千『貫』ってのがおかしいとは思っていた…金の額はそんなんでもないのだ。
計算するに頭をひねることになるのは、いくら西方貿易をしているとはいえ東日本の豪商なのに金よりも圧倒的な銀の貸量だ。そんくらい、銀の重さが重すぎる。
銀の数える単位は『貫』『匁』『分』というふうに重さなのだが、一般的には匁を使う。金の一両=4朱とはまた違う計算式になるのは、銀が重さで計っているという段階で察していただけると思うが…
1貫=1000匁なんである。
で、大体の換算が宝暦頃なので 1両=49匁 なのだ。
一万貫越えてる段階で、ちょっとまて、銀どんだけ貸してるんだYO という事になるのである。
うわー…
うわー……
知ってる、もう、何を読んでも光丘一代で築いた財産が米1万六千表、貸金 金五万四千両、銀一万九千貫…とか書いてあるの…。それを一所懸命現代価格に換算して 300億とか、230億とか書いてあるの…すごく知ってる……。叔父さん関係の書物にもそう書いてあるんだよね、叔父さん相場の神様だから投資関係のハウツー本の大体最初の方に出てくるんだが、それと一緒に本間家も説明されて有能な甥光丘の事が書いてあって以下略なんだ……。
先生、先生の罪は深い…。
でもまぁ桁一つ違うとはいえゼロ一個の差ではある。
結局33億円という数字をはじいて少し安堵し(すでに金銭感覚がオカしくなってきているようだ)そのようにどーじんしには描いたのでした。
さんじゅうさんおく もどーかと思うと今冷静になってちょっと思ってる。
ちなみに一両を宝暦物価換算でおおよそ 六万六千円として計算しております。
*** *** ***
というわけで、歴史はなかなかおっかないところがあるのだとRHは知ったのでした…。
でも誰も変だと思わなかったのかねぇ?参照参照また参照を繰り返し、一つ間違ったことを送り出すとそれが通説となる世の中だ。ここは、一つまた違った通説を打って出ても悪くはないよねぇ
何を読んでもこの数字が出てくるので、皆様方におかれましては…銭の数字と銀の数字がズレてしまっているらしいのだよと把握されていただきたいと願う次第であります。
艦の次は刀らしい [シェブロン県の話]
まず、何より課金ありゲーじゃないか。いや、課金せずとも楽しめるには楽しめるらしいけど。
ブームになるのはいいことだ。それで歴史ジャンルが少しでもこう、盛り上がってくれれば歴史系に今身を置く私としては嬉しい。けど別にソレじゃなくてもいいw
*** *** ***
さてそれで刀ブーム的なものは果たしてくるのか。女子は男子の艦コレブームの様に実際の日本刀などを拝みたい、どういうものなのかもっと知りたい!という流れに乗ってこれるものなのか。どうなんだ?
無理なんじゃないのか(と、個人的には思っている)
無理言わないでブームが来たらいいよね!という事で 東北地方でありながら国宝級、重要文化財級の日本刀を多く所持する我らが荘内藩とかにもスポット当たるといいよね!
刀といえば、昔殿様ん家から(この場合の殿様とは、荘内藩の殿様を指しており今現在も日本で唯一殿様である『酒井』さんちである)日本刀盗み出した連中がいたらしいという話を、郷土本を読み漁る中で見たことがある。
私、地元にハマってはいるけど全部手を広げると大変なことになるため、今現在もある程度照準を絞っております。本間家関連を重点的に調べているため…このあたりの記事展開をよく覚えていない。
でも、日本刀が戦後没収され、捨てられ、鋳つぶされずに済んだ背景に本間家関係者が絡んでいるのは知っている。
そんな都合、そのうちこのあたりも調べていろいろ読んでみよう…とは思っていたけど大正・昭和の話になっちゃうので後回しにしているのよね…(あえて江戸中期から明治まで、と標準絞ってる)
今日はまたどうしてそんな話かというとですね。
明日の日付の荘内日報という、地方紙があるんですがこちらのトップにですね。
殿様ん家から盗まれていた重要文化財である日本刀が大阪で見つかった、というトップ記事だったからです。
ああそうそう、盗まれたらしいんだよね。それがここの所政府の文化庁の所在確認調査であれこれ騒がれていて…そして俗世でも刀剣ブームらしくて。
そういえば、鶴岡は国宝級の刀が二振りありますよねぇ。しかし国宝の日本刀は100振り近くあるそうで、まぁそう思えばたったの二振りと言えるのかもしれない。
ツイッターで回ってきたリンクで知って、最近つい読み込んでしまったサイトさん参照しています
こちらです http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/
面白いです
そこをいろいろ見てみるとへぇ、国宝だけど個人所有がほとんどなんだと驚く。
殿様ん家から29年も前に盗まれていた重要文化財の刀は『備州長船住元重』だそうで、なんでも見返り元重といわれるほど『切られた人が後ろを振り返るまで切られたことに気が付かない』程の業物だそうです。
件のサイトで得たにわか知識を振り回しますと、茎が折り返されている。
鎌倉時代の作という事なので、太刀だったものを刀としてええと、削るのなんていうんだっけ忘れたけど、こう太刀をビフォーアフターして短くして刀にしてしまう、というのがよくあるんだそうです。
そうしてしまうに鞘の中にある刀の『茎』に彫ってある銘が削れてしまうため、これを残すために折り返す場合があるそうだ。
写真で見ると見事に折り返してある。
そのうえ、忠篤(ただずみ 戊辰戦争時の酒井家藩主。当時めっちゃ若かった。個人的に通称ズミ)の名が彫ってある。
戊辰戦争の功績を評価して菅ちゃん(菅実秀 当時の藩士。スガではない。スゲである)に送ったけどいろいろあって殿様ん家に戻ってきたものなんだそうだ。
こう、刀って鞘に収まった状態で展示されていることが多くて、それはそれでいいんですが…
やっぱり刃の部分とか、銘とかも見たいよね…
致道館さんはいつか名刀分解展とかやりませんかね… 笑 本間美術館でもいい
*** *** ***
さてさてそう言う事で、後回しにしていましたが本間家がどのよーに日本刀に関わったか、ちゃんと資料手元にあるんだからもう一度読みましょう。
はい…平成に入っていろいろ問題も起こしていた日本美術刀剣保存協会の二代目会長を務めているのが本間順治さんですね。戦後まもなくの話です。
この方は戊辰戦争時、秋田遠征に行った服部弥惣の孫ですね。
服部さんは古刀鑑定において庄内地方で右に出るものがいなかったと語り継がれておるそうです。
服部さんは武士なのでもちろん鶴岡の人ですが、本間家の8代目光弥(かってに通称 みつやん)の妹が婿養子として服部家の次男を迎えている。そのため孫は本間の性となっているわけです。
(※ 庄内地方、もとい 荘内藩は殿様が住み、武士が集う『鶴岡』と 東北一の港を持つ自由都市『酒田』の二つの面を持っています。酒田にはもちろん商人が多い 本間家は都合武士だけど商人)
さて戊辰戦争後、つまり江戸時代が終わり明治となった世の話です。
たくさんの武士が武士じゃなくなったわけですが、何しろ戊辰戦争で一番最後まで戦っていたのが荘内藩です。殿様が今現在も残ってしまっている位、ぶっちゃけ超保守的な文化な訳ですよ。最後の武士の国といっても多分、過言ではないでしょう。ヘタに戊辰戦争で連戦連勝キメてしまってたり、他がすでに戦う国としての姿を失っている中で唯一ちゃんと武士が生きてて、いざ戦争になった時ちゃんと強かったっていう…。
しかもそれは時代錯誤なのではなく、ちゃんとその時の最先端を取り入れての強さだった。金の力は強いのねん…。
そんな荘内藩も大泉藩になっていたわけですが…それはさておき廃刀令が出て鶴岡の武士が持っていた刀は不要となり、また禄がなくなって帰農しなきゃならなくて、貧しさに耐え兼ねついに手放し様になってしまった。
どこに売るかっていうと商人の町、酒田に売りに出すわけだけど…威張り散らしていた武士と商人の軋轢なんかがありまして酒田商人、鶴岡の刀等を二束三文で買い叩いたそうだ。(まぁ、酒田に売りに来られても以後刀は誰も持たない時代だから不要の長物、値がつかないのは当然といえば当然なんだけど)
これは双方悪い処があるのでなんともいえないけれど、以後それで鶴岡酒田の仲が悪いなどと言われております。
この二束三文で買い叩かれた刀の中に、良いものがあるのと見抜いたのが鶴岡士族(武士)の服部弥惣。
そりゃぁあるだろうよ。
でもその当時、刀の良しあしというのは今の様に確立しているものではないから、銘品としての目利きとしての先見性として服部さんはすごいのだと思う。
そして服部さんは本間家(時代的に言えば6代目の本間光美だろう)に、良い刀は高く買い上げるように働きかけていたそうだ。光美といえば光丘再来といわれる人物で、都合早く隠居したけどご隠居様としてのパワーは計り知れない人です 笑
こういう事に極めて理解のある人だったので、進めを受けて二千振り以上の業物を集めたといいます。
…高値で買い取ったとに二千振り以上とかマジかと思うかもしれませんが 日本一の地主なめちゃいけません。そんくらい多分、余裕だったんでしょう…
これを眠らせておくのではなく、ちゃんと管理もしていたようです。これだけの刀をどうするつもりだったのか、その後戦争が起こって需要が出ることを予期していたというのなら光美の先見眼は三代目並というしかない。
光美がなくなり7代目光輝の一人息子、八代目光弥の時代を経て9代目光正の時代についに戦争が激化していくわけです。
まぁこの時政府へ向けた献金額が 藩時代の非じゃねぇったら 笑
剣刀の需要が高まり、本間家は集めた業物を提供することを決め、東京の三越でほしい人に かなりの格安で 譲った様だ。その売上金一万4千円程はそのまま陸軍に献納したそうである。
様だ、ではよくわからないから計算してみよう。
昭和12年ころの話の様なので…と、昭和12年の物価指数が見つからねぇ 笑 物価指数わからないと計算のしようがねぇなぁ…まぁいい、どんぶり勘定でいこう。
仕方がないので昭和初期頃の物価からかんがみるにざっと、この売上金を2万5千万円程としてみる。
それを、この時放出した刀剣が大体1000振り程という事で単純に割ってみよう。
一振りたったの2万5千円!!!
コスプレ用の模造刀かよ!!!!!
さっすが本間家ェ…… 売上上げるつもりなくて全部陸軍に献納した通りである…。
今じゃ一振り200万とかすんだろ…そのくらいの服部さんが見込んだ業物だよぅ…。
*** *** ***
とまぁこのように戦争によって散逸した日本刀。
戦後、GHQはこの日本刀をひっじょーにおそれまくった経緯があるそうです。とにかくこの謎の切れる恐ろしい刀を亡きものにしようと刀狩りを始めた。これにより失われた刀もまた数多いという。
それを、伝統ある作品、美術品として保護する活動をしたのが…服部さんの孫、本間順治さんというわけです。二代目会長になった通りであり、この人の働きがなければ今の日本刀は無かったくらいのレベルでは日本刀はひん死の憂き目にあっていたという。
一方でこの順治さんの弟さんは、本間家9代目が病死した都合後継人指定された祐介さんとのこと。
すげぇじゃん、結構関係してんじゃん…。なんか結構運動していた人だったよな、と思ってたけど結構どころじゃなかった 笑
第八軍憲兵指令官のキャドウェル大佐を説き伏せ、日本刀は怖いもんじゃないよ、すごいんですよ、きれいなんですよ、1000年近く昔のものなのに今も形を保っているんですよ、かつては命と同等の価値があったんですよ~、すごい希少なもので、そう簡単に作れるものじゃないんですよ~ 的に説き伏せた結果。
大佐を逆に愛刀家の一人にすることに成功。懐柔作戦大成!!!!
こうしてGHQによって赤羽に集められていたという多くの日本刀が鋳つぶされ、海に沈まずに済んだのだそうだ。
*** *** ***
今その日本美術刀剣保存会は内部腐敗が激しいらしい
…それで散逸した国宝級、重要文化財級も少なくないという事がこのたびの文化庁の調査で明るみに出ているわけですよね?
これを機にスポットライト浴びて、刀剣の、歴史の方にもスポットあたるといいな~いいなまじで~
そこに叔父さんは居ません [シェブロン県の話]
でもなんかかなり多昔に一度だけ来た記憶がちょっとよみがえってきたんだけど本当に何時だったか覚えていない…
旧本間家、行ってきました。
というか、その前に致道館に行って、致道博物館に行きました。あれ、なんかこの違い良くわかって無かったんじゃない俺?
いや、建物はこっちに在るのに致道…博物館はこっち…?っていうちょっとした疑問はあったんですが、
今回ようやくすっきりしました。ああ、なるほど 笑
しりゅーさんすいません、そしていささん、引っ張ってってすいませんw
でもこれですっきりしたし、あそこ無料って知ったのでさもあらん(←)
*** *** ***
そんなわけで庄内三昧という事で(地元民なのにね) 改めて、理解を得て、興味を持ってからのジモト観光は楽しい…!
致道館、ここは間違いなく二回目に来たんだけど中の資料マトモに読んで無かったよね。そして今見ると余計な事が色々解って楽し過ぎる。
地図の見せ方!!!!ってなってた。そうだね、もう少し見やすいケースにしてほしいw
光丘文庫のケースは地図も見やすくて良かったよ。
何時の時代の地図であるのか、というのも併記してもらえると尚いいのに。そこんところも光丘文庫でやってた地図展ではちゃんと何時の時代のものか書いてあって親切であった。博物館的な意味合いで展示するならそこはやっぱ大事なのでは…!!
そんな致道館、とか書いておいてそも、致道館とはなんぞや!?
という人の為にまず説明をしなければならないわけですが、致道館というのは藩校でありまして、出来たのが江戸時代中期。江戸時代、地方は領主である藩主が治めるわけですが、藩を運営する武士達の教育の場として作られたのが藩校であり、荘内藩ではこれを致道館といって最初、鶴岡の現在における日吉町に置いていました。
作るように働きかけたのが白井矢太夫で、よっしゃ作るか!ってGOサイン出した殿様が酒井忠徳。タダアリと読みます。そうとわかってはいるんですが、私の脳裏ではこの九代目(あるいは7代目)酒井殿様の事をトクちゃんや徳さんと呼んでいる事が多いようですどうでもいい。
白井矢太夫は典型的な酒井家家臣武家のヒトなので『金儲けは武士のする事に在らず』という考えを持っています。ようするに、金儲けイコール悪事なのです。商人がそれをする事すらアサマシイと考えている事が多く、ましてや武士が利殖行為を行う事は言語道断!心がひん曲がっている!という価値観であったりします。
そこまで言わなくても…と思うかもしれませんが、それが当時の武士のナウなんだからしょうがない。
あと、譜代大名である酒井家の家臣は特にそう言う考え方が強い傾向にあったらしい。
ゆえに、白井時代に起用されてついに武士になった本間家の人、つまり三代目の光丘(ミツオカ、あるいはコーキュー)はこの白井派閥からは徹底的に目の敵にされていた様である。
まぁそんなわけで、致道館は本間家関係ないのかっていうと、そうでもない 笑
光丘は白井派から徹底的にいびられて遠ざけられてしまったわけなんだが、その後光丘から四代目の光道(ミツミチ、あるいはコードー。実際には光武、あるいは外衛(トノエ)と書いてある事が多い)に代が移ると色々事情が変わってくる。
光道、白井矢太夫の事大っきらいでな…日記にも色々書いてある。それもそのはず、父光丘が遠ざけられ、ないがしろにされた原因の人物なんだからそりゃー嫌いにもなるだろう。ましてや商人蔑視されてるわけだし。
光道はあまり藩からは起用されていないのだが、元々光丘だって色々頼まれたのを散々固辞したり、期を見ては理由をつけて辞めたりしているというのが本当の所。商人なんだから武家仕事を進んでやる事はない、という事で家訓を守り、藩から求められた献金には快く応じる形でのお付き合いにとどめて…本間家の地盤固めを徹底した人物と見る事が出来る。
それでも荘内藩、というか、酒井殿様としてみりゃ本間家と末永くお付き合いしたいもんだから、何かと付けて役職は与えていた様である。
そんなこんなで光道、あっというまに光丘が築いた仕事を更に大きくし、荘内で揺るぎない大旦那としての地位を得る事になる。
こうなってくると白井矢太夫も本間家をたかが商人、とないがしろには出来なくなってきたらしい。ましてや、藩が貧乏で本間家などに頼らない事には上手く台所事情が回らないというのが実情っていうの、よぉく解ってきた所だろうしね。
そんなおり、白井派老中はひょんなことで失脚するハメになる。それは今回長いから書かないけど、仙台藩絡みとだけ書いておこう。
白井派が失脚することで家老に返り咲くのは、本間家を起用すべきと唱えて亀ヶ崎(酒田)に遠ざけられていた水野派である。そんなわけで光道にも色々藩の仕事が回ってくる様になったようだ。
白井派失脚の時期に合わせ、光道は今の日和山(昔はただの、砂山。光丘、光道時代に植林をしてようやく根付いて林になりつつあった頃である)から船場町、米蔵近辺の整備や復興について藩に意見書を求められ、送り、これらの事業に従事するようになっている。
砂山を日和山、に改名したのも確か、光道だったはずだ。砂の悪路を舗装したり、灯台を作ったり、またカコ(水夫)達をねぎらうためにも遊郭などを作るように色々藩に意見を出したりもしたようである。
本間ちゃんが戻って来てくれたよー!という事で殿、さっそく藩校致道館をもっと城の近くに据えて徹底的に武士教育に力を入れたいんだ!という願いの元に、光道に致道館移設工事の指揮を取らせます。
そうです。
あそこにある致道館を、物理的に、金銭的に、作ったのは本間家です 笑
致道館そのものを設立したのは白井矢太夫であり、致道館オッケーしたのは酒井忠徳です。
その後大宝寺(現在の日吉)に致道館は出来ましたが、今のあの規模じゃぁ無かった模様。
もっと学問と武家鍛錬をちゃんとしよう!という事で改めて致道館を近くに移転させなさい、というふうに光道を起用したのは次の殿様、忠器(タダカタ)です。通称、カッター(勝手に)
十日町に致道館立てるにあたり、本間家がどのようにかかわったかってそりゃ、
金の面に決まってるじゃぁないですか 笑 あと、様々な備品の御用達をしたのは間違いあるまいよ。光道時代には自分家の船持ってるし、光丘時代からすでに京などの職人さんに作ってもらった立派なモンをたびたび酒田に運び込んでは設置しているんだもの。
そういう目で見ると、致道館のアレとかコレとか…揃えたのは…ってなるだろうそりゃぁ。書いてないし、書く必要はないと武士メインの鶴岡では判断したかもしれないが、そういうウンチクとか横の連結もちゃんと説明してくれないのはやっぱり今も鶴岡・酒田の仲が悪い所為でしょうかねぇ などと穿ってしまう。
*** *** ***
そんな邪推満々で見る致道館です。楽しかったです…。春の季節にまた来よう!!(←)
そんで次に、博物館。酒井吉之丞家の三兄弟の墨展見に行くー。
いやぁ、玄蕃さん文字すげーきれーっては聞いてたけどマジですげー…
玄蕃様タイプ作ればいいよ、っていうか誰か作れよwってくらいに綺麗で、かつ特徴的。
弟の調良さんも、兄さんには敵わないとかいいつつもこっちはこっちでいやはや…昔のトラウマでお習字がイヤァー!になってしまった私ではありますが(祖父がガチお習字の先生だった…)(それで察しろ)
人の文字を見るのは嫌いじゃない。俺が書きたくないだけ!!!
なので、よく書き初め展は見るよw
戊辰戦争で新庄落として秋田に進軍する道中書いた奴がやっぱり個人的には一番気になる。
全部略が描いて無かった都合、二回目となるイサさんとシリューさんが必死の書き取りを試みていましたよ…
しかし漢文だし、シロウトにはよく意味が取れない。
がしかし戊辰戦争における二番隊の足取りや行軍を理解してから見ると、ああ大体ここらへんの時に書いた歌だね、っていうのはうっすら解ったりする。
っていうか、進軍中に行軍を歌にするとかマジ風流!
しかも文字綺麗とか!どういう事だ! …これ机に向かって書いたんじゃなくってぇ、マジメに戦争で行軍している最中に描いたもの…なのか…?後で改めて清書したんだろうか。そのあたり良く見てくるの忘れたけど玄蕃様なら道中でもこれくらいのクオリティ出しそうで怖い。
そんな酒井吉之丞とは!
荘内藩の殿様、酒井家の従兄弟にあたる重臣の家系。酒井吉之丞、というのが家の名前だ!実際には酒井、でいいんだが昔の人は役職含めて何代も同じ名前というのが割と普通でな…。
例えば、重臣の一人である水野家は代々水野内蔵丞だ。どの時代にも内蔵丞が出てくるぞ!!!
同じ意味では本間家も光道から三代全部本間外衛だから注意な!!!!
玄蕃、というのはこの吉之丞家の当主が名乗っていて『剛毅な人』的な意味がある。よって、他の藩の他の家系でも玄蕃を名乗っている人は結構いる。
実際酒井吉之丞家は代々玄蕃的な人が多く、酒井殿様に直接剛速球を投げる人も少なくなかったようである。それで切腹させられる羽目になった人も居るけど話長くなるからパスな!
ちなみに今回の玄蕃様事、了恒の叔父さんにあたる人が腹を切るハメになったりしてます。
了恒は酒井忠篤(タダズミ)(17代目藩主)からだいぶ懐かれていて、戊辰戦争での活躍は勿論の事、その後も有能ぶりを発揮したのだけど38歳位で亡くなってしまったのですよぅ…。
本間家から攻めている都合、こっちはまだ手薄ですすいません。ただ本間家から攻めている都合、接点がある所は書けるぞ!!!
吉之丞家は重臣なので、昔は(まだ窓際職ではなく、名誉職と呼ばれていた時代)亀ヶ崎城代なんかも務めていたりしている。多分、その頃の縁と思われるのだが…。
本間家、中間(ちゅうげん)としてこの吉之丞家に自分家の子を送り込んでいる。
中間というのは武家のお手伝いさんみたいなもので、江戸時代中期頃からゴロツキの類が雇われで務める様になった都合イメージ的によろしくない所があったりもする。けれどそういう雇われ中間が現れる前までは、土地土地の有力者の二男三男などが務めていたそうである。
吉之丞家が殿様に伴い江戸に上る時に連れてった中間。それは、本間家初代原光の五男で、二代目光寿の弟にして三代目光丘にとっての叔父さんこと後の本間宗久である…。
そして叔父さんは相場にハマって帰ってくるのだ…。荘内で括ると、世間は狭いね。
*** *** ***
その後、ハルさんとヤマさんと合流。ラーメン食べてからのー本間家です。
というわけで、ようやくタイトルの解説をするんですが。
そこに叔父さんは居ません。居ませんwww
突っ込ませんな!!!!いや、私がそういうボケかまされるもん描いたから悪いんだが!!!!
ここらへんから叔父さん入ってくんだろ?とか都度やられると、俺本気で叔父さん侵入経路勝手にでっちあげんぞこら、っていうふうに悪くこじらせるんだからね…!?
(注: RHは神出鬼没なおじさんが義絶しているにもかかわらずこっそり家に忍びこんでくる、的なマンガを描きました。そして光治に追い返される。大抵第一発見者は光道である…)
色々な資料から察する間取りは大体解っていたのと、この時代の武家屋敷の構造は解っていたので…すでに今下書きでペン入れ始めた原稿に変更の必要はなさそうだ。ただ、普通の人と相対する場合何処の部屋使うんだろうな?殿オッケーなあそこ使うんだろうか?庭も見えるし、まぁ、あそこなんだろうな…。
というわけであの格子を描く必要性に迫られる訳だな。大丈夫、おねえさん勝手に描くからw
さて旧本間家です。公民館になってたのは知っていたけど、お習字はった画鋲の穴が一杯ある部屋wwwww
その前に軍部置かれたりしたのも知っていたけど窯勝手に増設したのは初めて知った。
もはやテキスト知識で大体わかっているというのも変な感じだ…。そして過去描いたものの間違いを発見してまぁ、そのうち直そう…という感じで(どこかは言わないし、言ったところでそんなところ!?って感じで別にそこまでこだわらなくても…という所だと思われる)
いやぁ、あの仏間にどんだけの仏様入ってたんだろうな…。
この建物を建てたのが光丘で、光丘が神仏信仰が篤い所じゃなく狂に近い部類だった事を知っているのでこの規模を見てももはや何も驚かない…。おどろかねーけど普通の人はそりゃー、びっくりするだろうなぁ。
今はあまりしなくなってしまった習慣ながら、いや、祖母の実家である某寺に行くと必ずやるんだけれども。
まず、家に帰ったら真っ先に仏壇に行って手を合わせるんだよね。そうだったそうだった。
だから、玄関明けてまっすぐ向かいに超デカい仏壇あっても別段問題ないよな。帰って来てまず手を合わせるんだし。
お話に在る通り、収納スペースがほとんど皆無である。ようするに押入れがない。
都度必要なものを蔵から出してきて、不要な時は仕舞ったという。…ええと、つまり、布団も…か?と、密かに思っていたが聞けなかったなぁ。聞けばよかった。
この屋敷、表は武家屋敷で蔵のある方が商家作りになっている。使われている木材も違い、作りや梁の高さも勿論違う。こういう作りの屋敷は全国見回しても…まず無いのだっけか?とにかく極めて珍しいもので、しかも立てた当時からほぼ姿変らず残っているというのだからすごいもんだよ実際。
これを建てたのは三代目光丘。そもそも、藩主が変わり忠徳になった時にこの、徳ちゃんがまだ幼なすぎたために国目付が派遣されてくる事になり、その巡視団を迎え入れる為に作ったものである。
が、作って使い終わった後にこの建物を貰う事になっていたらしい。そもそも光丘が自力で立てた建物なんだからそりゃー、貰ったって構うまいと思うだろうが。当時としてみりゃ商人なのに武家屋敷作るってんだ、一応武家としての禄は貰うようになっていた光丘ではあるが、こういう機会でもなければ公に自分の屋敷なんて立てられる立場ではなかったのかもしれない。
そんなわけで、最初から半分武家屋敷で、半分商家作りという不思議ちゃんになっている。
で、ちゃんと調べないで書く事ながら。
あの立派な庭、作った当時は無かっただろうと思うんだ。臥龍の松は原型があっただろうけど、庭の整備は恐らく光道がやっちゃったんじゃないかと思っている。武家屋敷って、あそこまで立派な庭作るもんだろうか?お庭は武芸稽古する所だろ?
ましてや、国巡見師団はずいぶんな人数が来たらしいし(代表は二人だけど)
二人を迎えるに付き人数十人、応対する庄内藩士、それらを控えさせるに庭は必要だろう、空間として。
あの状況ではなかった、と思う。
ようするに、光丘が住み始めた頃はまだ庭としてはそんな立派なもんじゃなかったと思っている。
そんな妄想をしながら現在の原稿です。
別荘も含めて庭を作ったとされるのは実際光道や五代目光暉だったらしいしね。
さてそんで…この家は、光丘時代から使っているわけだから…。
義絶されていた叔父さんこと、宗久はね、多分、敷居をまたいだ事が無かったと思うよwwww
だから、実際叔父さんはそこに居ないの!ね!? 居たらおかしいの!!!でも実際居たら可笑しいから居た事にするけど!こっそり!
叔父さん、一度大阪行って、戻ってきた頃には光丘、この屋敷に住んでいるけどその時はまだ義絶中です。真面目に義絶されていたなら互いに家には上がり込めませんw
でも叔父さんの事だから、建設中の本間邸に何やら小細工は仕込んでいても何ら不思議に感じない…。
困った事に(←)旧本間家を作り始めた年に、おじさんは一旦大阪から酒田に戻って来て倉庫業を始めているんだ…。何細工されててもおかしくない…やらかしそうである。
殿様なんかも受け入れるんだって?じゃぁ、秘密の脱出通路作っとかないとだな!とかいって大工そそのかしてなんか抜け道とか作ってそうなイメージである。金沢の忍者屋敷みたいに…とか描いてたらおらワクテカしてきたぞ!?(多分ないです)
さて真面目に、その後宗久は倉庫うっぱらって(光丘、というか光道に)江戸に出てしまうのです。
根岸に屋敷立てて…いや、その前に江戸相場を大阪と同じく散々ひっかきまわして大金を得て、出羽の天狗ここにありと名を立ててから根岸に屋敷立てるわけです。そんで寛永寺務めで幕府方金貸しになって相模守として封じられるわけなので、
まぁやっぱり宗久はあの屋敷には足を踏み入れてないんだろうな、と思われます。
逆に本間家の連中はこれ見よがしに根岸本間邸を江戸宿地にしてるので結構出入りしてるっていう。
江戸が焼けてなかったらなぁ…根岸の大本間屋敷は戊辰戦争後に某に売り払われたらしいけど、などと痕跡を一応は追っていたりはするが実際そこに行く勇気はまだちょっとない。
*** *** ***
補足とかいれたらずいぶん長々になったね、いつもの事だけどさ!
そしてついつい夜更かししていまった…ヤバい寝ないとだ。