俵田渡口米の事 [シェブロン県の話]
どうも、めちゃくちゃ久しぶりのブログなのにタイトルはそれなのか、というツッコミは
もれなく受け付けておりませんのでよろしくお願い致します。
久しぶりなのに、挨拶はそれなのか?
いいんです、ヒマがなくてブログってないだけで私結構、変わってませんよ という事で
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140文字に到底纏められる事ではなかったのに、連投するのはいかがなものか、的なツイートも散見し、
いやまぁそんなの気にするほどの字書でもないんですが、
スレッド表示でツイッターも連投作品見やすくなったんですが、
実は別段フリック入力が得意になったわけでもないので、
やっぱりキーボードだっかだっか叩くのが性に合う都合、このように久しぶりにブログを書く事にしました。
前置き長い?しょうがない、ここは大型粗大ごみ埋立地ランドフィルである。
日常から話はあっちこっちふらふらが定番です
近況については、そうですね。今めっちゃ吹雪いてますってのと、
わしそろそろ職変えたいのでこっそり職安通ってます、的な?(でも現在も変わらず社畜)
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地元、シェブロン県は庄内地方の話になります。
タイトルは、ひょうだ わたし くちまい と読みます。私は、たわらだ、わたし くちまい だと思っていました。そのようにルビられているのから入った都合ですが、まーどっちでも問題は無さそうです。
なんのこっちゃいと思うでしょう。
何のコッチャイ なのですこれが。もう、去年からずっとこれに悩まされてきているんですよ私は。
本間光某、という地元のエラい豪商のどーじんしを作っている私、今ようやく巨星光丘くんが片付いて(いや、厳密には資料が多すぎて結構端折っているんだけど)大好きな四代目光武(光道)に着手したんです。
光道に着手したという事は、だ。
松前貿易をキチンと履修せねばならない。そのために、数年前から関係書物や小説は結構読んでいるが、なかなか本間の文字は見受けられない。でも、歴史的に見るとかなり初期から北海道に米廻送してるの(松前藩が天封になって幕領になってすぐくらい)本間さん家なんですよね、どう考えても…資料が無くても…湊とかの関係上、無関係なはずがない、的な。
次に、光丘時代から本格的になっている、地主的な側面を履修しなければならない。
すなわち……農民にお米作ってもらってどこからどこまでが小作料(地主取り分)で御年貢はどっから出してて(村単位だったのか、村に対して小作は米を提出していたのか)、農民の取り分は大体何割か?
…的な事をちゃんと履修せねばならない、と思っていたわけです。
ところが、これが、とっても大変な事でして…それがこのタイトルに集約されている。
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歴史でね、このね、俵田渡口米とかって、習った?習った覚えがある? はずがないのです。
私はそんなお勉強に熱心な学生時代を送っていないので、初遭遇した時に
「そんな事歴史でベンキョしただろうか?」
という感覚に陥った。でも、多分覚えてないだけだろうとその時は自分の無学にがっくりしたのです。
まぁそういうわけなので、このー、えー…たわら、だ?わたりこう、まい???
的に読みもわからなければ意味も解らない。
なんじゃこりゃ
なんじゃこりゃあ!!
と、とにかく本間さんちにおける、土地、というか田地の売り買いの項目においては、一貫してこの俵田、俵田米、とかって事が書いてある。古文書の原文にそう書いてあるんだからしょうがない。
なんなんだね、これは???
まず、グーグルにお尋ねしますよね。
そうしたらどう出たと思いますか。
ウィキペディアが存在しねぇ!
最初に出てくるのがPDFファイルだ!!!
辞典系の表示すら出てこねぇ!コト◎ンクやら歴史民族用語辞書にすらヒットしねぇ(分断すると多少は)
おいおい、どういう事だよこれは…と言う事で、お偉いさんのPDFファイルをDLさせて頂き、紙に出力して読んでみた。
うおおお……めっちゃ難しい…わからんんんーーーーー!!!!
と言う事で、とりあえず専門用語的な事を色々調べまくった。
この頃、地主と小作、についての無料配布漫画作成を目指して色々調べていたのでした。
その漫画は、残念ながらタイムアップしてしまい中途半端なかんじで作成されて無念の思いを念頭に置いて配布しました。
(配布予定のイベントまで全体的な結論を自分で咀嚼して吐きだせるまでの理解が出来なかった)
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まー小難しい話は辞めようじゃないか。ウチのコンセプトは、緩く、分かり易くがモットーなんだ。
その為に事前資料が多くなってしまうのは、レキシのサガなので、ゆるくまったりやっている。
私は本当にこの界隈足を突っ込んだのが最近なので、結構相当歴史知識が足りてません。
だから、わからない人にどこをかみ砕けばいいのかが逆に、わかるんじゃないか、と思っているんだけど、どうなんだろうか?結構クドめに解説入れながらどーじんし描いてる自覚がある。
クドくて細かくてごめんなさい。
でも、どしろーとにも分かる様に、緩く、具体例出しながら、やっていきたいんだ。
だから、俺はたわらだわたしくちまいの事、諦めてない、諦めてないんだから!!!!
と言う事で隙あらば資料を漁って来たんですが今日!!!この、ド吹雪の中!!!
見つけました…地元の図書館で、今まで必死に咀嚼していた資料と知識に対するアンサーが書いてある書物が!!!
残念ながら貸出禁のとこにあったのですが、そんなに分厚いものでなかったのでざっくり読んで、要点をメモらせて頂きました。
ありがとうございます、そもそもPDFファイルもあなた様のものだった気がする、
大場正巳様、
間違っていたら容赦なく叩きに来ていただけたらと思っています…ジダイじゃなくてレキシでやってるのでそこは大歓迎です……
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俵田渡口米とは、鶴岡藩、つまり荘内藩独自のシステムである。
俵田が地主の所有地の事で、渡口米が一般的における小作料に価する
……訳ではな無いのではないかという可能性がある
というのが先生の研究の趣旨であるようです。
私も、そう思います。実際のところは分かりませんが、散々光丘の歴史と背景を掘り起こしてくると、自然と彼らの『思想』的なもの、プロファイリングが進んでいくわけです。
その中には、もちろんどーじん作家的な自由な妄想や創造や、行間の埋め立てもありましょう。
ぶっちゃけありでしょう。私はそういう立場で趣味でやっている。
さて、そうすると、光丘の行動理念的なものが見えてくる。
あの人は上の人に逆らわない。家訓として書き残し、おそらく明治や大正あたりまで彼の家訓が本間家の行動を制限したのではないかと思われる節がある。
圧倒的な『商人』気質で、そうしたうえで家中(藩士)とも渡り合った傑物であり、その癖に驕らず、驕りを良しとせず質素倹約を後世にまで強要するに至る大始祖である。
見方や、視点においては色々な解釈が出来るのでそれらはすべて、その視点において正解だと思う。
それはさておき本人自身は?という事においては、ようするに上記のような人であろう、と私はプロファイリングするわけです。
そうやって、光丘の性格的な事から想像すると、
・年貢に苦しむ農民の為に田地を担保にお金を貸すが、低利を貫いているので一般的に流布している地主と小作人のような凄い利率の小作料を取ってないんじゃないか?
・アンサー、でも商人なので最終的に損はしない為に、年季がとっても長い
・土地の譲渡は国によって禁止されている。
・アンサー、だから土地の直接支配的な『地主』には絶対ならない
この二つが、光丘時代に転向したとされる『商人から地主への転換』というレキシ解説に首をかしげる項目なのです。
本当に本間家は大地主の一言で片づけていいのか?
俵田渡口米の事を調べ始める前から、そういう性格的な事に甚だ疑問を感じていた。
じわじわと庄内特有の言葉回しを理解し始めると、その疑問は強く違和感として残るようになったのでした。
じゃぁ、地主と小作人ってどういう関係なのよ?それを調べてみると
『なんか本間家と農家の関係とは全然違うよな?』ってなってきた。
何かがおかしい。だって、農民で進んで自分たちの田地を本間家に差し出す様な人達も居た事実がある。そこには、そうした方が利があるという農民の切実な損得勘定があるはずなのだ。
俵田、渡口米、地引地、立上米、納升……
これら全部荘内藩特有の問題を擁する言葉で、これを理解しないと今回見つけた本も、読んだところでちんぷんかんぷんだっただろう。
でも一年近くずっと悩んできたので、ものすごくすんなり理解できた。
でも一年近くずっと悩んできたので、ものすごくすんなり理解できた。
そうか、そうだったんだ!
そういうスッキリ感をどうしても吐きだしたくて、今回ブログにしたわけです。
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それで一体どうだったんだよ!的な事は、
書きだすとその専門用語の解説からやらないといけないので今回はヒドい事に割愛するのです。
しかしは私はこれで俵田渡口米について、つまり地主と小作についてのウンチク無料配布漫画にリベンジを掛ける事が出来る!!!あとは数値を計算してみて自分的に納得するだけだ!
そんな、俵とか、当時の米単位で説明されたって現代人にはピーンとこないに決まってるんだから。
そこを計算入れまくって現代換算していけば実態がものすごく見やすくなるに違ないと思っています。
楽しみですねぇ、私結構計算式とかひたすら色んな方向から入れてみるの好きみたいなので(笑)
とにかく、ざっくり言っておく結論的には…
荘内藩の川北、つまり酒田以北は荘内藩の中でも特殊な形式で年貢を集めていて(湊町含む)
この中でまた本間家はオンリーワンな政策を江戸中期から実施しており、
あまりに形式が違う為に世間一般的な歴史通念で当たると理解が出来ない位に『違うシステム』を
要いていた可能性が極めて高い、
と言う事です。
すごいですね、実はこれでまだ確定されてなくて未だ研究が進められている状況らしいですよ…
それもひとえに、本間家文書として大量の資料が残されているから、だそうです。
そもそも当時の資料が残っている事時代が稀有な事で、そうとすればもしかして、
地主と小作の形態とは、今一般的に辞書に書いてある事とは事実異なる可能性もあるし、やっぱり違うのは庄内地方だけだったかもしれない可能性もあるという事だ。
いやぁ。ひどい(めっちゃ褒め言葉)所ですよ庄内は。さすが戊辰戦勝ちまくって負けた賊軍だけある、ブラックリストが多すぎるよ 笑
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