SSブログ

そこに叔父さんは居ません [シェブロン県の話]

いってきた…いってきたよ…
でもなんかかなり多昔に一度だけ来た記憶がちょっとよみがえってきたんだけど本当に何時だったか覚えていない…

 旧本間家、行ってきました。

というか、その前に致道館に行って、致道博物館に行きました。あれ、なんかこの違い良くわかって無かったんじゃない俺?
いや、建物はこっちに在るのに致道…博物館はこっち…?っていうちょっとした疑問はあったんですが、

今回ようやくすっきりしました。ああ、なるほど 笑

 しりゅーさんすいません、そしていささん、引っ張ってってすいませんw
 でもこれですっきりしたし、あそこ無料って知ったのでさもあらん(←)

 *** *** ***

 そんなわけで庄内三昧という事で(地元民なのにね) 改めて、理解を得て、興味を持ってからのジモト観光は楽しい…!
 致道館、ここは間違いなく二回目に来たんだけど中の資料マトモに読んで無かったよね。そして今見ると余計な事が色々解って楽し過ぎる。
 地図の見せ方!!!!ってなってた。そうだね、もう少し見やすいケースにしてほしいw
 光丘文庫のケースは地図も見やすくて良かったよ。
 何時の時代の地図であるのか、というのも併記してもらえると尚いいのに。そこんところも光丘文庫でやってた地図展ではちゃんと何時の時代のものか書いてあって親切であった。博物館的な意味合いで展示するならそこはやっぱ大事なのでは…!!

 そんな致道館、とか書いておいてそも、致道館とはなんぞや!?

 という人の為にまず説明をしなければならないわけですが、致道館というのは藩校でありまして、出来たのが江戸時代中期。江戸時代、地方は領主である藩主が治めるわけですが、藩を運営する武士達の教育の場として作られたのが藩校であり、荘内藩ではこれを致道館といって最初、鶴岡の現在における日吉町に置いていました。
 作るように働きかけたのが白井矢太夫で、よっしゃ作るか!ってGOサイン出した殿様が酒井忠徳。タダアリと読みます。そうとわかってはいるんですが、私の脳裏ではこの九代目(あるいは7代目)酒井殿様の事をトクちゃんや徳さんと呼んでいる事が多いようですどうでもいい。

 白井矢太夫は典型的な酒井家家臣武家のヒトなので『金儲けは武士のする事に在らず』という考えを持っています。ようするに、金儲けイコール悪事なのです。商人がそれをする事すらアサマシイと考えている事が多く、ましてや武士が利殖行為を行う事は言語道断!心がひん曲がっている!という価値観であったりします。
 そこまで言わなくても…と思うかもしれませんが、それが当時の武士のナウなんだからしょうがない。
 あと、譜代大名である酒井家の家臣は特にそう言う考え方が強い傾向にあったらしい。

 ゆえに、白井時代に起用されてついに武士になった本間家の人、つまり三代目の光丘(ミツオカ、あるいはコーキュー)はこの白井派閥からは徹底的に目の敵にされていた様である。

 まぁそんなわけで、致道館は本間家関係ないのかっていうと、そうでもない 笑

 光丘は白井派から徹底的にいびられて遠ざけられてしまったわけなんだが、その後光丘から四代目の光道(ミツミチ、あるいはコードー。実際には光武、あるいは外衛(トノエ)と書いてある事が多い)に代が移ると色々事情が変わってくる。
 光道、白井矢太夫の事大っきらいでな…日記にも色々書いてある。それもそのはず、父光丘が遠ざけられ、ないがしろにされた原因の人物なんだからそりゃー嫌いにもなるだろう。ましてや商人蔑視されてるわけだし。
 光道はあまり藩からは起用されていないのだが、元々光丘だって色々頼まれたのを散々固辞したり、期を見ては理由をつけて辞めたりしているというのが本当の所。商人なんだから武家仕事を進んでやる事はない、という事で家訓を守り、藩から求められた献金には快く応じる形でのお付き合いにとどめて…本間家の地盤固めを徹底した人物と見る事が出来る。
 それでも荘内藩、というか、酒井殿様としてみりゃ本間家と末永くお付き合いしたいもんだから、何かと付けて役職は与えていた様である。

 そんなこんなで光道、あっというまに光丘が築いた仕事を更に大きくし、荘内で揺るぎない大旦那としての地位を得る事になる。
 こうなってくると白井矢太夫も本間家をたかが商人、とないがしろには出来なくなってきたらしい。ましてや、藩が貧乏で本間家などに頼らない事には上手く台所事情が回らないというのが実情っていうの、よぉく解ってきた所だろうしね。

 そんなおり、白井派老中はひょんなことで失脚するハメになる。それは今回長いから書かないけど、仙台藩絡みとだけ書いておこう。

 白井派が失脚することで家老に返り咲くのは、本間家を起用すべきと唱えて亀ヶ崎(酒田)に遠ざけられていた水野派である。そんなわけで光道にも色々藩の仕事が回ってくる様になったようだ。
 白井派失脚の時期に合わせ、光道は今の日和山(昔はただの、砂山。光丘、光道時代に植林をしてようやく根付いて林になりつつあった頃である)から船場町、米蔵近辺の整備や復興について藩に意見書を求められ、送り、これらの事業に従事するようになっている。
 砂山を日和山、に改名したのも確か、光道だったはずだ。砂の悪路を舗装したり、灯台を作ったり、またカコ(水夫)達をねぎらうためにも遊郭などを作るように色々藩に意見を出したりもしたようである。

 本間ちゃんが戻って来てくれたよー!という事で殿、さっそく藩校致道館をもっと城の近くに据えて徹底的に武士教育に力を入れたいんだ!という願いの元に、光道に致道館移設工事の指揮を取らせます。

 そうです。

 あそこにある致道館を、物理的に、金銭的に、作ったのは本間家です 笑

 致道館そのものを設立したのは白井矢太夫であり、致道館オッケーしたのは酒井忠徳です。
 その後大宝寺(現在の日吉)に致道館は出来ましたが、今のあの規模じゃぁ無かった模様。
 もっと学問と武家鍛錬をちゃんとしよう!という事で改めて致道館を近くに移転させなさい、というふうに光道を起用したのは次の殿様、忠器(タダカタ)です。通称、カッター(勝手に)

 十日町に致道館立てるにあたり、本間家がどのようにかかわったかってそりゃ、
 金の面に決まってるじゃぁないですか 笑 あと、様々な備品の御用達をしたのは間違いあるまいよ。光道時代には自分家の船持ってるし、光丘時代からすでに京などの職人さんに作ってもらった立派なモンをたびたび酒田に運び込んでは設置しているんだもの。

 そういう目で見ると、致道館のアレとかコレとか…揃えたのは…ってなるだろうそりゃぁ。書いてないし、書く必要はないと武士メインの鶴岡では判断したかもしれないが、そういうウンチクとか横の連結もちゃんと説明してくれないのはやっぱり今も鶴岡・酒田の仲が悪い所為でしょうかねぇ などと穿ってしまう。

*** *** ***

 そんな邪推満々で見る致道館です。楽しかったです…。春の季節にまた来よう!!(←)

 そんで次に、博物館。酒井吉之丞家の三兄弟の墨展見に行くー。

 いやぁ、玄蕃さん文字すげーきれーっては聞いてたけどマジですげー…
 玄蕃様タイプ作ればいいよ、っていうか誰か作れよwってくらいに綺麗で、かつ特徴的。
 弟の調良さんも、兄さんには敵わないとかいいつつもこっちはこっちでいやはや…昔のトラウマでお習字がイヤァー!になってしまった私ではありますが(祖父がガチお習字の先生だった…)(それで察しろ)
 人の文字を見るのは嫌いじゃない。俺が書きたくないだけ!!!
 なので、よく書き初め展は見るよw

 戊辰戦争で新庄落として秋田に進軍する道中書いた奴がやっぱり個人的には一番気になる。
 全部略が描いて無かった都合、二回目となるイサさんとシリューさんが必死の書き取りを試みていましたよ…
 しかし漢文だし、シロウトにはよく意味が取れない。
 がしかし戊辰戦争における二番隊の足取りや行軍を理解してから見ると、ああ大体ここらへんの時に書いた歌だね、っていうのはうっすら解ったりする。

 っていうか、進軍中に行軍を歌にするとかマジ風流!
 しかも文字綺麗とか!どういう事だ! …これ机に向かって書いたんじゃなくってぇ、マジメに戦争で行軍している最中に描いたもの…なのか…?後で改めて清書したんだろうか。そのあたり良く見てくるの忘れたけど玄蕃様なら道中でもこれくらいのクオリティ出しそうで怖い。

 そんな酒井吉之丞とは!
 荘内藩の殿様、酒井家の従兄弟にあたる重臣の家系。酒井吉之丞、というのが家の名前だ!実際には酒井、でいいんだが昔の人は役職含めて何代も同じ名前というのが割と普通でな…。
 例えば、重臣の一人である水野家は代々水野内蔵丞だ。どの時代にも内蔵丞が出てくるぞ!!!
 同じ意味では本間家も光道から三代全部本間外衛だから注意な!!!!

 玄蕃、というのはこの吉之丞家の当主が名乗っていて『剛毅な人』的な意味がある。よって、他の藩の他の家系でも玄蕃を名乗っている人は結構いる。
 実際酒井吉之丞家は代々玄蕃的な人が多く、酒井殿様に直接剛速球を投げる人も少なくなかったようである。それで切腹させられる羽目になった人も居るけど話長くなるからパスな!
 ちなみに今回の玄蕃様事、了恒の叔父さんにあたる人が腹を切るハメになったりしてます。
 了恒は酒井忠篤(タダズミ)(17代目藩主)からだいぶ懐かれていて、戊辰戦争での活躍は勿論の事、その後も有能ぶりを発揮したのだけど38歳位で亡くなってしまったのですよぅ…。

 本間家から攻めている都合、こっちはまだ手薄ですすいません。ただ本間家から攻めている都合、接点がある所は書けるぞ!!!
 吉之丞家は重臣なので、昔は(まだ窓際職ではなく、名誉職と呼ばれていた時代)亀ヶ崎城代なんかも務めていたりしている。多分、その頃の縁と思われるのだが…。
 本間家、中間(ちゅうげん)としてこの吉之丞家に自分家の子を送り込んでいる。
 中間というのは武家のお手伝いさんみたいなもので、江戸時代中期頃からゴロツキの類が雇われで務める様になった都合イメージ的によろしくない所があったりもする。けれどそういう雇われ中間が現れる前までは、土地土地の有力者の二男三男などが務めていたそうである。
 吉之丞家が殿様に伴い江戸に上る時に連れてった中間。それは、本間家初代原光の五男で、二代目光寿の弟にして三代目光丘にとっての叔父さんこと後の本間宗久である…。
 そして叔父さんは相場にハマって帰ってくるのだ…。荘内で括ると、世間は狭いね。

*** *** ***

 その後、ハルさんとヤマさんと合流。ラーメン食べてからのー本間家です。

 というわけで、ようやくタイトルの解説をするんですが。

 そこに叔父さんは居ません。居ませんwww
 突っ込ませんな!!!!いや、私がそういうボケかまされるもん描いたから悪いんだが!!!!

 ここらへんから叔父さん入ってくんだろ?とか都度やられると、俺本気で叔父さん侵入経路勝手にでっちあげんぞこら、っていうふうに悪くこじらせるんだからね…!?

(注: RHは神出鬼没なおじさんが義絶しているにもかかわらずこっそり家に忍びこんでくる、的なマンガを描きました。そして光治に追い返される。大抵第一発見者は光道である…)

 色々な資料から察する間取りは大体解っていたのと、この時代の武家屋敷の構造は解っていたので…すでに今下書きでペン入れ始めた原稿に変更の必要はなさそうだ。ただ、普通の人と相対する場合何処の部屋使うんだろうな?殿オッケーなあそこ使うんだろうか?庭も見えるし、まぁ、あそこなんだろうな…。
 というわけであの格子を描く必要性に迫られる訳だな。大丈夫、おねえさん勝手に描くからw

 さて旧本間家です。公民館になってたのは知っていたけど、お習字はった画鋲の穴が一杯ある部屋wwwww

 その前に軍部置かれたりしたのも知っていたけど窯勝手に増設したのは初めて知った。
 もはやテキスト知識で大体わかっているというのも変な感じだ…。そして過去描いたものの間違いを発見してまぁ、そのうち直そう…という感じで(どこかは言わないし、言ったところでそんなところ!?って感じで別にそこまでこだわらなくても…という所だと思われる)

 いやぁ、あの仏間にどんだけの仏様入ってたんだろうな…。
 この建物を建てたのが光丘で、光丘が神仏信仰が篤い所じゃなく狂に近い部類だった事を知っているのでこの規模を見てももはや何も驚かない…。おどろかねーけど普通の人はそりゃー、びっくりするだろうなぁ。

 今はあまりしなくなってしまった習慣ながら、いや、祖母の実家である某寺に行くと必ずやるんだけれども。

 まず、家に帰ったら真っ先に仏壇に行って手を合わせるんだよね。そうだったそうだった。
 だから、玄関明けてまっすぐ向かいに超デカい仏壇あっても別段問題ないよな。帰って来てまず手を合わせるんだし。

 お話に在る通り、収納スペースがほとんど皆無である。ようするに押入れがない。
 都度必要なものを蔵から出してきて、不要な時は仕舞ったという。…ええと、つまり、布団も…か?と、密かに思っていたが聞けなかったなぁ。聞けばよかった。

 この屋敷、表は武家屋敷で蔵のある方が商家作りになっている。使われている木材も違い、作りや梁の高さも勿論違う。こういう作りの屋敷は全国見回しても…まず無いのだっけか?とにかく極めて珍しいもので、しかも立てた当時からほぼ姿変らず残っているというのだからすごいもんだよ実際。

 これを建てたのは三代目光丘。そもそも、藩主が変わり忠徳になった時にこの、徳ちゃんがまだ幼なすぎたために国目付が派遣されてくる事になり、その巡視団を迎え入れる為に作ったものである。
 が、作って使い終わった後にこの建物を貰う事になっていたらしい。そもそも光丘が自力で立てた建物なんだからそりゃー、貰ったって構うまいと思うだろうが。当時としてみりゃ商人なのに武家屋敷作るってんだ、一応武家としての禄は貰うようになっていた光丘ではあるが、こういう機会でもなければ公に自分の屋敷なんて立てられる立場ではなかったのかもしれない。

 そんなわけで、最初から半分武家屋敷で、半分商家作りという不思議ちゃんになっている。

 で、ちゃんと調べないで書く事ながら。
 あの立派な庭、作った当時は無かっただろうと思うんだ。臥龍の松は原型があっただろうけど、庭の整備は恐らく光道がやっちゃったんじゃないかと思っている。武家屋敷って、あそこまで立派な庭作るもんだろうか?お庭は武芸稽古する所だろ?

 ましてや、国巡見師団はずいぶんな人数が来たらしいし(代表は二人だけど)
 二人を迎えるに付き人数十人、応対する庄内藩士、それらを控えさせるに庭は必要だろう、空間として。
 あの状況ではなかった、と思う。

 ようするに、光丘が住み始めた頃はまだ庭としてはそんな立派なもんじゃなかったと思っている。
 そんな妄想をしながら現在の原稿です。
 別荘も含めて庭を作ったとされるのは実際光道や五代目光暉だったらしいしね。

 さてそんで…この家は、光丘時代から使っているわけだから…。

 義絶されていた叔父さんこと、宗久はね、多分、敷居をまたいだ事が無かったと思うよwwww

 だから、実際叔父さんはそこに居ないの!ね!? 居たらおかしいの!!!でも実際居たら可笑しいから居た事にするけど!こっそり!

 叔父さん、一度大阪行って、戻ってきた頃には光丘、この屋敷に住んでいるけどその時はまだ義絶中です。真面目に義絶されていたなら互いに家には上がり込めませんw
 でも叔父さんの事だから、建設中の本間邸に何やら小細工は仕込んでいても何ら不思議に感じない…。
 困った事に(←)旧本間家を作り始めた年に、おじさんは一旦大阪から酒田に戻って来て倉庫業を始めているんだ…。何細工されててもおかしくない…やらかしそうである。
 殿様なんかも受け入れるんだって?じゃぁ、秘密の脱出通路作っとかないとだな!とかいって大工そそのかしてなんか抜け道とか作ってそうなイメージである。金沢の忍者屋敷みたいに…とか描いてたらおらワクテカしてきたぞ!?(多分ないです)

 さて真面目に、その後宗久は倉庫うっぱらって(光丘、というか光道に)江戸に出てしまうのです。
 根岸に屋敷立てて…いや、その前に江戸相場を大阪と同じく散々ひっかきまわして大金を得て、出羽の天狗ここにありと名を立ててから根岸に屋敷立てるわけです。そんで寛永寺務めで幕府方金貸しになって相模守として封じられるわけなので、

 まぁやっぱり宗久はあの屋敷には足を踏み入れてないんだろうな、と思われます。

 逆に本間家の連中はこれ見よがしに根岸本間邸を江戸宿地にしてるので結構出入りしてるっていう。
 江戸が焼けてなかったらなぁ…根岸の大本間屋敷は戊辰戦争後に某に売り払われたらしいけど、などと痕跡を一応は追っていたりはするが実際そこに行く勇気はまだちょっとない。

*** *** ***

 補足とかいれたらずいぶん長々になったね、いつもの事だけどさ!

 そしてついつい夜更かししていまった…ヤバい寝ないとだ。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。