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総評、庄内藩  [シェブロン県の話]

もう総評でいいのか。いや、そもそも私はどういう立ち位置で地元歴史をどーじんしていくか?という事を探りつつネタを探す為にひたすら調べ物をして、それは今も続いているんですが…

ざっと現在の状況をまとめてみよう。

というか、そうやって文字にしたためてアウトプットし、改めて読んで自分の中で整理する。
そう言う作業を脳内でやらんでWWWに放置プレイ、というのが正しい。

 なぜ放置プレイするか、というとそもそも、私が今攻めようとしている所は本当に、本当に!世間一般的には理解されていない所であるなぁ!!!と感じるのでせめて何処で誰が見てるとも分からない底のふかーい埋め立てゴミ地に捨て置いてみよう、誰か読むかもw
 という感じである。

 結構真面目に調べちゃいるが、未だに江戸時代の崩し文字を完全には読めないし(努力はすれどやはりムズイ。慣れる読めるようになるものらしい)漢文も完全に読めているとは言えない。

 そういうわけで、どこから情報を得ているかと云うと。
 元となる資料を読み込んで、一度一つの解釈をされてアウトプットされた書物、が主になっている。
 こういう資料から情報を読み解く時はだなぁ…同じ方向からだけ読むと危険なんだ。とくに歴史というのは解釈によっては千差万別で、過去の人たちが本当の所どう思っていたか、本当はどうだったかなど結局は推測で語るしかなく、完全にこうだった!という答えがあるわけではない。

 そこは所詮、歴史のエラい人の解釈、すわなち声の大きい人の自説がまかり通って世間の通説となるっていう極めてゾクなモノだという認識が、

 ぶっちゃけて昔から私にはある。

 社会化、あんまり得意じゃなかったのだ。その理由として、詰め込み授業だったからだ。その時どうしてこうなったか、という事を横の連携をあまりせずに『~の変』みたいに勝手な区切りを置いて事件性を理解させられ、その事象に勝手な名前がついていてその名前を丸暗記させられ、ぶっちゃけその名前の指す意味を覚えていなかったりとか、間違っていたりとか。

 逆に科学系が得意だったのは、科学は事象なりその名前を覚えるに、事象とはどういう理論でどうなる事であるか、という事も同時に理解する必要に迫られる(そりゃ、科学だからな)からだろう。

 私は理論がないと名前をちゃんと覚えられない人だったんじゃねーかな。今も理屈っぽいしね。で、理屈を述べたいのだけど人はとかく結果だけを求めてくる。

 大事なのは中身であって結論じゃねー

 というのが私の主張だ。(それでもシャカイ的には結論が全部なんだが…そのくせ理由を求めるから理由を説明しても結局理屈はいい、って言われるのがシャカイである。もう開き直って悟っている)

 とまぁ、ようするに言いたいのは。

 庄内藩マンセーの人が描いた本だけ読んでも庄内藩の事は良くわかった事にはならない。

 という事です。

 色々本を読んでみて本当にそう思う。シェブロン県内だけでもこうなのだから、いずれ少しずつ読む資料の幅は広げ、新潟と秋田、米沢からの歴史も読まないとなー と思っていたりする…くらいには

 地元歴史にどっぷりいってます。

*** *** ***

 本来、こういう事を研究し、良く知っている人があーだこーだと文字を書き連ねるべきだ、

 というのは、ブログというツールが発達した現在、全く通用しない理論だろう。
 しかし件の理論はブログについても同じだ。むしろ、ブログの方がその点注意して閲覧しなければならないと思う。
 時に一方的な情報を知り、それを元に適当に文字を連ねてつらつら素人ながら語るがブログ。

 うちのブログはそれにも劣る埋め立て日記なんですがね。

 それでもマジになった以上はマジに追及はする。
 という事で、以上の事は理解したうえで以下の事を書いている、という事をご理解いただきたい。

 ようするに何が言いたいかと云うと、現在の『総評』ではあるけれどまだ全てを平等に見きっている自身はないながら、私は出来る限り『平等』な視線で庄内藩というのを考えて以下『総評』を書きたいのだ、という事です。

 解り辛い?オーケー。

 ようするに本間家好きだけど本間家好きだから本間家マンセー視線からは評価するつもりはないという事だ。

 庄内藩地元だから好きでヨイショしたいけど徹頭徹尾酒井殿様はのびた君あるいはジャイアンであるという評価は変わらない。

 そう言う事だ 笑

 でもどーじんとしてはマジメするつもりよりかは『まず知ってほしい!』と云うのが先だから、こういう真面目な事はあまり展開するつもりはない。

 けれども、一般的に庄内での通説をそのまま通すつもりはさらさらない。

 というわけで、具体例を出しながら…話を前に進めて行きませう。

*** *** ***

 まず…三国転封事件を例にあげよう。日本史において一番有名で一番マレな結末に終わった江戸時代末期の国替事件の事だ。

 幕府の命令は絶対だった江戸時代においてて、この三国転封は 色々あって中止された。
 ようするに三つの国が処替えするようにという幕府の命令が、唯一撤回されて無かった事になった事件である。

 細かい事についてはとりあえず端折るが、
 この国替えが中止された第一の理由として…我が庄内藩の農民一揆運動があげられているだろう。
 農民一揆というものはだね、出てしまうと『治世不届き』という事で処罰の対象になるものである。処罰されるのは国(藩)を治める側、すなわち殿様だ。
 庄内藩の殿様は江戸中期以降酒井左衛門尉である。

 つまり、国替えを命じられたのに対し農民一揆が起こった場合、国替えという処罰の一つが中止になる、というのはおかしな話なのだ。知行取り上げ(治める土地の取り上げ)が処罰として加算されたまま国替えしろと言われてもおかしくない状況だというのに何故か、幕府が折れてしまい庄内は国替え処罰を免れてしまったのである。

 なぜか。

 庄内で起こった農民一揆は、一般的な打ちこわしではなく…これと全く逆で、殿様とお別れするのが嫌なのでこのまま酒井公を庄内に置いてください!という嘆願運動だったからである。

 …打ちこわし出ない農民一揆がおきているのは日本史見回しても庄内だけである。

 というオンリーワンを持っているのにどうしてこの事実はそんなにピックアップされていないのか。
 それは、その後この国替え中止事件は明治維新(江戸時代が終わって明治になり、将軍は居なくなって天皇が国を治める事になる)に繋がっていくからなのです。

 まぁようするに、明治維新で将軍家(佐幕派)から天皇(勤皇派)に方向転換し、そして今に至る通り。

 江戸時代の美談など現在の天皇中心の政治においてどーでもいい。

 という風潮があった都合歴史に残す事が出来なかった、というのが一つ。勝った者に関連する美談だけが持ちあげられ、声高に唱えられ続けたのが現代史です。ただ、現在はそういう風潮が世代の切りかわりにより変って来ているのは間違いない事でしょう、

 二つ目、庄内においてこの、酒井家を庄内に残す為の運動としての農民一揆を、江戸幕府の命を裏切った事になる事情から表立って歴史として書き遺す事が出来なかった、という事。

 まぁ、そうだよね…庄内としては転封しなくてよかったという話だけど、それは幕命に反しているんだからほぼ反逆行為にも等しい。幕府側から中止とはした事とはいえ前例はないし、後に続く例も庄内藩にしかないのだから、どんだけ庄内藩 勝手やねん、って話である。そこはモノの見方によるのだ。

 そして三つめ。
 美談として語り継ぎたいのはあくまで『国を治める側』であって実は農民側では無いという事。
 さぁ、これが問題だ。藤沢センセイも躓いたというぞ、私も同じく調べいくにつれて途中でなんか違和感は感じていたんだ。
 それはつまりどういう事かと云うと、本当に農民が主体となって酒井公を慕って転封阻止運動を起こしたのか?その首謀者は、何を望んでそのような一揆をおこしたのか?

 そもそも一揆っていうのは農民達が支配階級である藩や殿様に対して不満をぶちまけるべく割と無秩序に行われるものであって、統率がとれていて暴発しない一揆って何よwwww なんで首謀者いんのwwww

 である。首謀者は、いたのだ。居た事は明言されている。しかし彼らが本当の所どういう意図で一揆を首謀したのか、という事が、この事件を『美談として語りたい』側から修飾されているよね?

 というのが違和感の正体であるらしい。

 そう、美談として語りたいのは一揆をおこした農民じゃぁないのだ。こうやってお前たちは俺の統治を望んだだろう?という事で後世に残したいのはぶっちゃけて、殿様側(藩士側)だったりする。そして歴史をひも解き研究し、書を残す連中というのは大体は農民側ではなく藩士側である。

 この事実を知ってしまうとなるほど、庄内の三国転封阻止農民運動は、美談と語るにちょっとまて、ってなる。

 がしかし、だからといって首謀者の全貌を証し、彼らの陰謀で彼らの特権を保持するためだけに農民たちは使われたにすぎないのだ!と逆の理論を唱えるにも、ちょっとまて、ってなった。

 ぶっちゃけ首謀者とは誰かと云うと、まぁ都合幕府に睨まれたくない都合資料を『全く』残して無いという徹底ぶりではあるもののどー考えても庄内藩のチート…いや、奥羽のチート、本間家である。

 ところで本間家は藩士でもあるが根は商人。どちらかといえば支配者側にあるわけだが、特権階級で仕事としては郡代側におり農民と密接にかかわっている。しかし商人であるので特権階級ではあるけど一般的な藩士連中程に治める側の理論を貫いては居ない。どちらかというと、農民の為に明治になってから土地改革や農具開発、品種改良などに力を注いだという実績から見てもどーみても農民側に寄り添いたいというイメージが私にはあったりする。
 本間光美隠居後なわけだが、このあたりに踏み込むのはギリギリのラインかな、と思っていて実はまだ明治中期の歴史は余り読み込んでいないので、理解の及ばない所もあると思う。
 がしかし基本、殿と蜜月なので山居倉庫を作るに助言したり出資したりもしちゃってるところ、農民側から本間家はどう見られておったのやら。
 …山居倉庫問題は、うーん…語ると話がまた飛ぶから今回はパスしよう。実はこのあたりも色々ありましてな、山居倉庫スゲーという本が割と多い訳です。でも、これの管轄本間じゃなくて酒井だよなぁ、っていうのを理解してから私、ぶっちゃけ見かたが変ってしまった。

 だって酒井ってのびたくんだろ?

 っていうイメージ全く払拭してませんからね…。というか庄内藩士側に色々と疑問点があるのだ。彼らの統治が真っ当だ、というイメージが無く、明治になっても封県制度を貫きたい気概満々なのを理解するとうーん、ちょっとまてよ…ってなる。

 とにかく、本間家が実は酒井家の転封こまるから農民一揆をおこさせてなんとか中止にならんものかとあれこれ手を回した事は、割とゆるぎない事実に感じる。
 この事実を極めて隠したい、あるいは触れたくない側の資料を読んだ段階でも
『おいおい、お前らの陰謀だろこれwwwwどう見てもwwww』と思ったくらいだ、そう簡単に無関係を装えるもんじゃねーだろ。

 ようするに転封を中止させたい本間家の理由、というのと推測していくと
『結局金持ちが自分の特権維持するために幕府にたてついて、その方法として農民を使いやがったのか、卑怯!』
 という見方もそりゃぁ出来る。
 しかし本間家というものの性質を考えてみると、確かに特権維持や資産維持の目的はあっただろう、その為に農民を『使った』というのも事実だろう。
 けれどそれを悪しき、的に断じるのはどうなのだろうか?
 何はともあれ転封したら酒井家は土地に課していた借金を一気に取り立てに来る。酒井家や庄内藩士に金貸してる本間家も、連中が去る前に借金は回収したい。借金払う為に農民から絞る、という図になるのは当然の事でそれが、転封というものだ。これは何処の土地でも変らない事だろう。
 故に、転封さえなけりゃ、突然の借金取り立ても無いのに、という考えは当たり前すぎる。
 転封を前に借金返済に苦しむ農民の怨嗟を、転封命令に転嫁する事はそんなに悪い事なのか?

 …そうして幕府に暴動を起こすならば藩としても黙っていないだろう、暴動を起こしては転封は加速するだけである。では、この農民達の苦しい状況を改善するためにはどうすればいいのかというと、
 農民一揆運動を極めて穏便に、暴力では無く心情に訴えかけるべく幕府に働きかけ、なんとか取りやめなり、延期なりをするように運動するよりないのだ。
 
 ようするに、『統率する』必要性に迫られているのである。統率出来なければ暴発し、事は悪い方に転ぶだけだ。
 よって、恐らくは首謀であろうチート本間家はこれを、極めて内密に統率し、一揆を指揮する必要に 迫られたのだろう、というのが…私の考えである。
 私欲の為に農民を統率したのではなく、現状庄内農民をなんとかするには転封は無かった事になるのがベストである。幕命だから覆る事は万が一にもない、というのが当時の考え方だろう。

 それでもなんとかしてみよう、

 そうやって、なんとかしちゃったのが三国転封事件なんではないだろうか。

 で、そういう前代未聞のなんとかしちゃった事実を、大々的に歴史に残したくなるのが人間のサガというものだろうがそれを、本間家はしなかったのだ。出来ない、という事を承知の上で運動を行っていたから、記録は一切残っていない。そもそも残ってたら困るし迷惑掛るだろうから、あったとしても表ざたにしていないというのが本当の所ではないかと思うのだ。

 ところで、これを裏付ける資料などと云うものは一切ないw
 一切無いのだが、そういう歴史の読み解き方も不可能ではない。最近この歴史について足を踏み入れた者には、どうしてこの問題は大きく知られていないのか?という疑問が湧いて出る。様々な事情に精通していれば都合が合ってもにょもにょ…というので声が小さくなるのだろう。庄内歴史を研究している期間は庄内藩側と、本間家側の光丘文庫が大御所でありますからな…

 私はそういうの全く関係ない所に居る為に、まぁこうやって埋め立ててみるのです。
 そして、ただ美談として三国転封を書くつもりが無くなって、実は本間家がなんとかしてしまったようです、と描いてもいいもんかな?という事に置いて、どうしてそういう歴史を残しておかないのかな?という疑問がわいた事をガッテンしてくださいまし。

 *** *** ***

 しかし本間家って真面目に金持ち土地持ちすぎて…どこまで歴史改ざんに関与したか、疑いの目を向けると本当にきりが無い。
 どこの金持ちも、権力を持つと大抵自分の都合のよい様に歴史はひん曲げるもの、という固定観念の様なものがあるのも良くないんだろうけど、
 無いとも限らないだろうな、絶対ない、とは言い切れないのが実情。

 しかし感情的には、あと今現在把握している本間家(ただし宗家)の性質からみて…

 そんな事はしないんじゃないのか?

 という感覚もあったりする。あの人達チートすぎて一々事を改ざんする必要などないんじゃねーの?とも思う。それくらい、存在が大きすぎて圧倒的なんだもの。やる事が『ちゃんと』してんだよ、商人なんだけど数理に長けてる一族だから理にかなってる動きをする。故に無駄が無い。

 それに対して庄内藩側。ようするに酒井殿様と藩士とか家老とか役人衆。

 こっちの方が色々ありすぎて、そしてコマゴマ隠ぺいやらの事実があって 笑えてくる。
 と同時に、こうやって人間だものと自分らの都合のよいように歴史を改ざんし、隠し、伝える事こそが本当なのだろうと思う。そういう事余りする必要もなく長々と酒井家と付き合ってる本間家の方がいろんな意味でおかしいんだ。というか、うん、おかしいんだよあの家…なんなの。叩いてもあんまりほこりが出ないとか、マジなんなの。

 鶴岡、酒田に残る歴史上、極めて出てこない話の一つに、酒井忠発(タダアキ、通称アッキー)を巡る内部のいざこざ問題がある。アッキー、お父様で先代の忠器(タダカタ、通称カッター)と仲が悪かった事をご存知の方は多分あんまりいないだろう。お家騒動だからこー言う事は地元の歴史家に任せっぱなしだと表ざたになりにくいんだ。で、カッター派からみると良い殿とは言い難いアッキーを、廃嫡して別の人を殿様にしようとした計画があって、中で色々ゴタゴタやってるんだがまぁ、この歴史が隠ぺいされている事 笑

 私は酒田、本間家側から酒井を調べている事が多い。
 で、本間家はカッターはもちろんアッキーからも どっちからも何変わりなく取り上げられていて変らない付き合いをしているように記録には書かれている。実際、当時の宗家である本間光道晩年から本間光暉、光美の時代においてそれなりの石を頂きそれなりの職務を回されているのだから、遠ざけられている気配はない。カッターとアッキーにまたがって接しているのは光暉になるのだが、二人の殿様に変わりなく接見している記録があるから、本間家側から見る限り、カッターとアッキー親子が不仲である様には見えなかったりする。

 が、実際にはカッターとアッキーは水面下で足をばたつかせ蹴り合っているのであるw

 というか実際にはアッキーが勝手に遅く来た反抗期で旧藩臣を不審がっておもしろくなーい ってやってるだけか…な。
 
 本間家としてはお家事情には触れず、なのかもしれないし、藩が見せないようにしたのかもしれない。
 そのように、見る視点が変われば歴史っつーのは結構変るものなのだね。そして残された記録だけが当時の手がかりとして残り、それを元に歴史というのは大体妄想されて補完されてしまうんだ。

 庄内藩、総称。
 やっぱり酒井家はのびた君である。ただ、転封当時はどう見てもジャイアン。その後のびた君になっていくのだ。そして時に先祖がえりしたみたいにジャイアンが現れる、そんなイメージ。

 それを支える藩士連中は、アッキー問題に絡みガッチガチの封権制度で明治を迎えたために、ワッパ事件など様々な問題を起こすに至る。ぶっちゃけて考え方が固執しているのが、本間家というチートが居るだけに目立って解ってしまう。

 金儲けは悪という武士の考え方の都合、利殖によって藩財政を立て直した本間家サイドをフツーに悪人扱いしている。ようするにそれはものの考え方なんだけど、当時の武家というものは金儲けはしてはならないというのが『風紀』だったんだろうな…と、その記録から読み解ける。
 でもな、本間家士分になったけど商人やめてねーから。あと、金儲けする奴らなんて心がひん曲がっているから商人達の金など踏み倒しても良い、という考え方はどうなのか…。
 今はおかしいと感じるけれど、当時としてもそれは正しいと言い切れるのか?結局固定観念で上から目線、先々まで見通して計画立ててる本間家に対し未来までを見通す事の出来ないその場解決が藩士達の特徴として見られる訳で、ああつまり庄内藩としてはやっぱりそんな優秀だったり特別なわけじゃぁない。

 どう考えてもそういうダメなのびたくんを秘密道具で何とかし続けた本間家の方が特筆すべきものがある。

 でも、俺達すごいんだぜがやりたい鶴岡ひいては庄内藩は、それらしい話を必死に語る。そういう時決まって本間家の事は出てこない 笑

 …というのが、庄内藩ですな。

 酒井家と本間家が仲良すぎるのに対し、
 それぞれ鶴岡と酒田に置き換える事が出来るにもかかわらず鶴岡と酒田の仲が悪いw
 トップがラブラブなのに部下達が対立しているというのが庄内藩です。

 だめだこいつら面白すぎる。


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君達は誰の子なの問題 [シェブロン県の話]

難問にあたりました…と、その前に。

こちら、カテゴリーをご覧ください。地元の話です、つまり、歴史の話です。
ぶっちゃけて本間家の5代目6代目相続問題についてのあれこれです。オープンなブログでやらかしていいのか微妙なんですが、上手い事まとめてある書が在るわけでもないので…。

自分の中で整理という事で、したためさせていただきます。

というわけでさっそく参りましょう。難問です…家庭問題と庄内藩と明治維新を経ての廃藩置県で露呈した、
五代目本間光暉 および六代目予定だったが廃嫡した本間光和(鈔治)、
結局六代目だった本間光美と、光和の子孫である光貞と光清(耕曹)のすったもんだと、

その間に挟まってる 酒井忠発(アッキー)と他諸々の問題を自分向けに整理しようと思います。

*** *** ***

まず何の話やねん?という事からご説明せねばなりますまい。本間何某(ナニガシ)とは、シェブロン県は海側の酒田に住んでたチート級の豪商一族で、名実ともに日本一の地主だった一族の事を言います。
詳しい事はググって光丘あたりを読むと良いよ。実際には光丘時代よりも後の(光丘は3代目)今回問題とする五代目光暉(コウキ、以下面倒なのでコーキと記載)や六代目光美(コービと記載)の方が圧倒的にチートであったらしい。ただ、能力的な面で言うと光丘と光美が群を抜いてチートである。

 度合いがどんくらいか、という事を後世に広く伝えているモノが書も含めあまりないのでアレなのですが、
 庄内民以外がこいつらのチートっぷりを世に歌い『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿さまに』などと殿さまよりも上に見ている事情から事をお察しください…。地元民はこんな歌は歌ってないんだ、歌っているのは大阪とかアッチの方の人たちでその噂が逆輸入してきているんだ…。

 さて次に、時代背景は光丘から四代目の光道(光武、と記載されている事もあるが同一人物である)(また、店の名前として久四郎というのも光道の事を言う。実際には光丘の名前なのだが、店の名前としては光道時代の店の名前は『光丘の店』という名義になり久四郎になるのだ。ややこしい)
 …の子供たちの世代、5代目の話です。

 まず第一問題提起。
 4代目光道(コードーと記載)は妻運が悪く、子供が居ないッ!がんばったんだが最高20歳で死去してしまったんだ!という事で後継者問題に悩む羽目になり、その所為で本間一族の間で養子問題がもつれにもつれまくったのが第一問題。

 極めて個人的な見解ではあるのだが、コードーは俳諧にハマりすぎていたキライがある。
 あくまでキャラクター的な膨らませて誇張したものとして、コードーの頭の中の半分以上は俳諧の事だったと思っている(笑)
 だから奥さんから愛想つかされたり、ギリギリまで後継者問題で躓いたんだろうとか勝手に妄想している。

 まぁそれはともかく、

 そういうわけでコードーは実の息子である庄司(=光弘)を跡継ぎにと考えていた所20歳で病気で無くしてしまって大慌てする事になってしまうのだ。妻運が悪く、正妻は勿論の事、妾にも男の子が他に居なかったんである!
 居たには居たんだけどやっぱり若くして死んでしまうの連続だったようで、実際庄司君も正妻の子ではなかったりする。
 なにより、庄司君が亡くなった年、コードーはすでに60歳になろうかという歳だったので限界も良い所だったのだ。別に晩婚だったわけじゃないんだ…結婚した女性が少なくなったりすぐ別れてしまったりの連続でとにかく、子供が居ない訳じゃないんだがなんか運が向いて無かったんだな…。

 庄司君が無くなった年に生まれた光和(=鈔治、金剛 以下、サジと記載)を生まれて間もなく養子に貰った事にするコードー。普通養子というのは在る程度育っているものを貰うものなのだが、コードー、庄司君の死去がショックだったのか、とにかく子供欲しくて生まれて間もないサジを『これは俺の子だーーー!』という感じで養子にするのでした。

 さて晩年迫りコードーは本腰据えて後継者を考えるターンに至ります。
 鶴岡の藩にはサジを『実子』として届け出て、その母として妾だった人を正妻にも昇格させたりしている。
それにしたってサジは年端がいかないわけだから、後継人としてサジとは別に5代目宗家を継がせる者を見つけなきゃいけない。

 そこで白羽の矢が立ったのが、光丘の弟である光治の子供、光敬の二男、源吉事 光暉(以下コーキ)である。

 サジを乳飲み子の状態で実子として貰い、それと並行して源吉を後継者として修行させるべくまず、本間家恒例行事を行わせます。すなわち、国外修行だ。ちなみにコードーの国外修行がどこだったのかが実は私、調べられないでいたりする。それはさておき、
 まだ宗家に養子にされていない段階のコーキは養子になる4年前、
 光丘の娘が松山藩藩士に嫁ぎ、その関係で本間家入りした町野家本間(中の口本間家)重継さん家に『養育の為』養子となる。

 …昔の人たちの名前って、代々同じだったりするからとってもアレなんだが…。

 この本間重継さんちは松山藩士の家系である都合か、代々みんな重継っぽいんだよな…。
 そこで色々勘違いが在るような気がするし、私もしているのかもしれないんだが…。
 重継さん家に養子に入ったのに、そこにコーキの五歳年上の兄『重継』さんが居るんだよ。わけわからんw
 某書には4年そこらの義理兄弟関係で喪に服すか?などという愚が書いてあるが、服すだろ。何言ってんだ、おめ、本間家だぞ…?本間家どんなのか解ってんのか…?
 
 何のために本間重継家に入ったのか、色々憶測はあるんだろうが私は例の国外修行の一環とみております。恒例行事だなんだろw

 四年後コーキは宗家コードーの養子となります。で、実子としたサジをコーキの『子供』と届け出、ついで
以下後継者問題に困らないように、という配慮から コーキを五代目、サジを六代目指定して…

 コードーはこの世をさったのでした。

 見事に裏目に出ましたね…。お陰で困ったのが実質6代目となったコービである。

*** *** ***

 何が起きたか、というとまず、

 サジが29歳で病死するというアクシデントが起きます。
 …既にこの時、コーキは養子であり後継者であると定められたサジを藩主である酒井忠器(タダカタ。解りやすく以下、カッターと書く)に紹介していてる状況だ。

 サジが亡くなった年、サジの子供として光貞(以下コーテイ)兄と、光清(=耕曹 以下コーソー)弟の兄弟があって、彼らより一年年上でコーキの長男としてコービが居る状況です。

 しかしてコーキはコードーの定めた順序を違えるつもりはなく、その後育ったコーテイを実子コービを差し置いて藩主カッターに向けて後継者であるとお目通り願いを出している。

 つまり、六代目廃嫡となったサジの子供の方がたとえ、コービの方が一つ年上だとしても、宗家存続権は上であるという認識を持っていたわけだ。

 ところが、だ。

 …庄内藩では光丘、いや、光寿時代より数えて100年近い月日が流れその間ドラえもんとして藩を支えた本間家に、はんぱねぇ信頼っていうかむしろこれは依存症というか、そういう関係が続いておりまして
 さらに。
 その時コーキは藩の三国国替事件解決の後だった。カッターもその息子で若殿の酒井忠発(タダアキ、ゆえに解りやすく以下アッキーと記載)も、諸事情により歴史の上では詳しく記載できないという長岡転封阻止運動をぶっちゃけて記載はされて無いけど絶対指示して支えて居たに違いないコーキに向けて、足向けて寝れないくらいの勢いで恩を覚えているのは間違いないだろう。
 そんなわけでカッターが、実子ではなくサジの子供たちを後継者として連れてくるコーキに向けて最高判決をくれてやるのね。

 YOU、YOUの子供を跡継ぎにしちゃいなよYOU。

 当時、つまり藩制の時代、殿さまの言う事は家老達が決めた事よりも圧倒的に絶対判決です。
 ましてや本間家は商家である、武家としての側面も持っていて禄も貰ってるけど遡っても武家には当たらない、根っからの商人。

 ぶっちゃけて光丘時代から『殿には常に会いに来ても良い権』を獲得してしまったチート本間家ではあるのだが(フツーは考えられない事だろう…それは…家老でもないのに…)
 そこをおごってはならぬ、上の人には絶対的に服し務めよ!というのが家訓である以上、奢る事を絶対しない本間宗家が、カッターからの最終判決に目をぱちくりさせる。

*** *** ***

 いや。いやいや、でもね殿、そうはいっても先祖代々、定められた事は守るというのが俺ら一族の規則という奴なんで…そう簡単に言われても。
 大体亡くなったサジと、サジの子供たちが浮かばれないだろう?
 俺は荘吉(=コービ)を後継者として育ててはいないし、健吉(=コーテイ)の片腕としていずれ代人としてはそりゃ育ててますけど

 「あ、じゃぁコーテイとコーソーはうちで貰うよ!!!」

 …あのね、殿…

 「武家として即座石を与えて召し抱えるから問題ないよ!」

 ……(まぁ、藩主の命令だから…これを覆すのも家訓に反する、か?)
 (そもそも藩主の命令に背くってのも、アレだしなぁ…)

*** *** ***

 という感じに、サジの子コーテイとコーソーは本間宗家から外される事になるのだった。
 その後、二人は藩士として、特に弟のコーソーは武芸を色々極めて大活躍するわけだが、コーテイの方の子孫が後本間病院のインチョになる所や、コーテイ自身が画家だったりするあたりからして武家ってガラでもなかったのかもしれない。

 この、宗家から外された事で実はいくつかの不遇があったというのが、後に藩制が排されて明治時代が台等してくるにつれてコーテイ、コーソー兄弟の間で爆発。

 ちょー、鶴岡の藩の記録見るとー、俺らー、正式な六代目の息子だからー、今の六代目がコービなのはおかしぃしー。

 という事で本間家に対し家督相続不順、という訴えを掛けられる事になるのだった。
 曰く、当時の殿である酒井家から家督相続を干渉されるのはおかしいだろう、という旨も盛り込んであるのだが、当時はまだ藩制なんだからそうはいっても、今さら覆すわけにもいかないだろうとコービ、宗家気質の都合か即座当主を止めて隠居してコーテイに当主の座を渡そうと思います!などと手紙にしたためて相談していたりする。
 実際問題、この訴えの所為でコービは早くに隠居して、しかして実子の光輝に7代目は継がれる事になる。

 つまり結局家督相続不順の訴えは取り下げられ、和睦となったという事だ。

*** *** ***

 サジの妻がね、なんか冷遇されたとコーテイ、コーソーは思ったらしい。宗家から降格され藩に抱えられた二人はいいとして、血縁関係にはない母親の方は即座実家に戻されてしまった。また、宗家大事!が基本方針である本間家において、宗家とそうではない家という区別ははっきりさせている都合、廃嫡となったサジ以下山の手本間組(コーテイ、コーソー)は宗家の墓の列に並べられなかった。

 結局は訴えられて、山の手本間は『特別扱い』になったんだが、実はそうなるにもう一つ困った難題がある。

 それは、

 結局サジは誰の子供であるのか?  という事と、それに絡み コーキは誰の子供なのか?
 という事だ。

*** *** ***

 藩に向けて、コードーが養子であるのにサジを『実子だから!!!』と届け出ていた。
 これを見てコーソー(訴えたのは実質コーソー。)はびっくりしたのだろう。

 というのも、本間家が酒田に届け出ている上では、サジとコーキは『実の兄弟』でどっちもコードーにとっては養子だからだ。

 実際問題どうなのかというと、ここがまた微妙。

 まずコーキの方から見てみよう。
 コーキは光丘の弟コージの長男であるコーケイの二男であるという。一方で、コージの二男、という文章も拾ったんだがこれは年代的に間違いだろう。

 光丘の弟は弥十郎・光治。代人も務めた本間宗家に近い方である。他にも弟居るけどまずはここだけ。
 弥十郎・コージの息子が 弥十郎・光敬。同じ名前になるのは良くある話。コーケイは長男である。
 このコーケイの子供に長男として金十郎・光長(光高?)、二男が源吉・コーキ、三男が金剛・サジ。
 コードーの後継者問題につき、コーキを松山藩の重継さん家に養育の為に養子に出す。
 所が、コーケイの長男コーチョウが若くして死んでしまう。亡くなったのは文政9年とあるが、一説に文政元年であろう、という。
 
 文政元年なら成るほど、まだ後継者問題がゴタゴタしていないので、コーケイは後継者がないので一旦養子に出していたコーキを生家に戻していても何も不思議はない。コーケイは文政2年の段階で後継者男子がいないので養子をもらいます、と鶴岡藩に届け出ているのだから実際文政元年が正しい様にも思う。

 ところが、この文政二年にコーケイが貰った養子というのが源十郎・重継の弟である源吉(22歳)だというのだ。

 おいこらまて、確かにコーキの幼名は源吉だが、文政2年だとまだ16歳だぞ。6年年が合わぬ。

 それに、コーキはコーケイの実子で二男なんだから、重継の弟じゃない。あと、もし文政元年にコーケイの長男が無くなったとしてそこから後継者を探し文政2年に養子をもらったとしても、その段階ではまだ源吉君事コーキは重継ん家に養子にいってない。コーキは18歳の頃重継ん家に行って4年間修業し宗家の養子となって22歳で5代目を継ぐんだぞ?

 という事で、この場合考えられるのは…

 コーキの5歳年上である重継義理の兄には実の弟の源吉というのがいたのだろう。あるいは、別の名前であったのに記録がおかしくなり、大体近い時期に養子として入っていたコーキ=源吉の名前が勝手にスロットインされたか。

 この問題、如何に解くか。…考えてみた。

 まず、コーキ18歳で重継家に養子入りがおかしい。実際問題としてはその丁度4年前に庄司君が無くなってサジが生まれ、後継者問題が勃発しているのだから…。文化13年頃にコーキ事源吉は重継ん家で修行に入ったと考えるのが妥当。そうすると14歳から18歳まで、が養子期間となる。18歳で入ったのではなく、18歳の頃すでに養子として重継ん家にいた、という記録なのだろうと推測する。

 すると、多分コーケイの長男が死んだのは 文政9年あるいは元年ではあるまい。
 文化9年だ。
 それなら話のつじつまがあうじゃないか。…誰だ文政九年は元年に見えるとか書いた奴ぁ…。

 すると、コーケイの長男であるコーチョウが死んで4年後に庄司君が亡くなった計算になる。という事は、20歳成る前に死んだ可能性が高く、そう考えるとコーキは二男ではなく実質三男だった可能性も無くも無い。コーケイの長男が死んだ段階ではまだコーケイには跡取りで悩む事はなく、コーキも居たしもう一人兄が居た可能性も高い。ちなみにサジはまだ生まれてない。

 まぁ、そんなわけで一説による『コーキは重継家の実子で在る説』はとりあえず伏せておけると思う。
 どちらにせよ本間家宗家の家系には変わりないから問題はないしなぁ。

 次にサジ。

 コードーは鶴岡藩に『俺の子だか!!!』届を出しているが、本間家の記録の上でサジはコーケイの三男である。先にも書いた通り生まれて間もなくコードーが『俺の子!』宣言をしたために、記録の上では光武(=コードー)の実子と書いてあったりする。

 そう、サジとコーキは実の兄弟なのだが都合、父と子という届をしている間柄なのである…。

 とはいえ、サジがコードーの本当の子供であるのなら、実の兄弟で在る説は無くなる訳だけども…。
 しかしサジが実子だとするならコードー61歳の時の子供という事になる…それは、ちょっとどうなんだろう?ありなのか?当時の寿命的にどうだろう?
 ましてやコードー、一度大病を患って一時期廃嫡願い出してたくらいなんだぞ、その後回復したから再び後継者として登録しなおしている。
 サジが生まれた頃、妾の一人を正妻に登録しなおしており、この妾との実子がサジである説、というのがあるわけだが年齢的に微妙な気もしている。でもタイミング的に妾を正妻に昇格させている訳だから…もしかすると実子なのかもしれない。本間家の記録の方を後でちょろまかした可能性も無いとは言い切れない。

 しかし、この説を否定する材料というのがこれまた酷くてな…。

 まず、本間家家史編集した人の性格から見てねつ造をする人では無い。調べて調べまくって史実に合っている方を選んでいると思われる。それは、現存しているという彼によって整理された資料の状況をみるにそんな性格を感じ取れるのではないかと思ったりする。

 次に、コーソーが訴えた時に藩主酒井アッキーがコーソーの訴えに対する返答が、だ、(すなわち、本間家の家督相続に殿とはいえ他家である酒井が横やりを入れた事についての説明)
 要約するに
『実はサジ君はコーキの実弟なんだよ!血がつながってるんだ!コードーがコーケイから密かに生まれて間もなく貰い受けて養子にしたんだけど、キミが見た記録の通り、鶴岡藩には実子として届け出ているんだ!
世間一般には実子だったけど、僕や父のカッターは実情を知ってい居たんだよね、だから君たち兄弟は別家にしてコービを宗家にしなよって提案したんだよ!
 まぁ、君たちその頃まだ幼かったから知らないとは思うけどね!』
 …ってマジにそんな手紙がありやがるおい…おい…。良い訳がましいにも程がある(というふうにどうしても見えるだろうこの場合…)

 サジは一体だれの子供なの?
 本当にコードーの子供なら色々ひっくり返るんだけど、本間家史実的にはコーソーの訴えを退けた都合もありサジはコーケイの3男だ。

 まとめてみると、コーキの問題は片付いたとしてやっぱりサジはどっちが正しいのかどっちも正当性はあるから何とも言えなくなる。なんとなく、酒田に隠し通せず事実を遠し、鶴岡には表面上を報告しているような気はする。ましてや本間家、酒田では商家で鶴岡では武家なんだしさぁ。

 ただ一貫して言えるのは、

 コードーてめぇめんどくせぇ事してくれたなオイ!

 という事です。

 とりあえず時間も無い事なので終わります。
 個人的には、コードーが俺の子宣言して鶴岡に届け出たけど実際の所は養子の方が面白いから以下略。
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わかった、本が無いんだ! [シェブロン県の話]

調べると結構いろんな事が分かるんだけど、その解った事が世間一般的に大体通用しない、つまり、

大衆向けに発行された本が無いんだ。理解した、無いものは 在った事にはなりはしないのが現代というもの。

 何の話かって?荘内藩の話だよ 笑

どうして藤沢センセイは架空の藩にしちゃったのよ!!!!

 具体的にちゃんと調べつくしているとは言えないけれど、とりあえずマンガの類はほぼ皆無とみて良いんじゃないのかと思った。他の主題に対し脇役として出てくる、という事はあってもそれ以上はない。準主役並みに活躍しているから徳川四天王第一を務めているのに、諸事情があって後世彼を伝える書物が少なく、その都合無かった事にされかけている…

 荘内藩 酒井左衛門尉wwwww(笑うしかない)

 雅樂頭(うたのかみ)の方が江戸時代にちゃんと江戸幕府の役職についている都合アレなんだよなぁ、
かたばみ紋だ!って良く見たら、剣 か た ば み だ って成る事の多さよ…さめざめ…

*** *** ***

 荘内藩主は酒井ザエモンイ。紋はかたばみ。
 播磨姫路藩主は 酒井ウタノカミ。紋は剣かたばみ。(かたばみの間に剣がついている)

 江戸時代においてはウタノカミさんの方が上、しかし荘内酒井家ではここから嫁さん貰ってる事もあったはずだ。その時に格式の違いどーこーいう話があったはず。

 酒井家にもいろいろあんのね、という所は勿論いろいろあるのです。徳川だって御三家っつって水戸様と一ツ橋様があるじゃないですか。

 色々あって分家して、酒井家にも色々あるわけです。

 で、酒井家というのはどのあたりから認識すればいいのかというと、遡って行くと家系というものはどこまでも辿っていけるものではあるのですが、

 とりあえず在る程度の区切りを設けて考えた方が分かりやすいと思います。
 とりあえず江戸時代に照準にして考えるに、まず江戸幕府を開いた徳川家康と酒井左衛門尉はどういう関係かという所からにしておきましょう。

 四天王筆頭が 酒井左衛門尉 です。

 すごいですね、うん、すごいんだけどね。代が変われば非凡出会ったりする事も良くある話です。
 酒井左衛門尉として一番スゴいのは 酒井忠治 でして、これに関連したモノが忠治自体は荘内には所縁がないけど酒井繋がりとして色々あったりもする。私個人として一番近いのは鶴岡の山王神社にあったりする。なんで忠治やねん!って思ったけどそーいえば庄内に転封されてきて3代目位の人が
 先代の祟りをおそれてノイローゼ気味だったな…と。
 その時なんか沢山の因縁を鎮めるためのアレコレを建てている。多分、それの一つなんだろう。

 さて酒井忠治、織田信長や豊臣秀吉にも関連している極めて有能な武将なのですが(主君としているのは徳川家康)有能すぎて秀吉におきににされすぎてしまったり、織田家の没落に関してちょっと手厳しくやりすぎてしまったり、家康のその後を考えすぎたばっかりに… 等ありまして、

 荘内転封になった、という曰くもあります。
 一方で、こちら日本海側の要なのでアンタが居なきゃだめなの★的に説得させられたという説もあります。

 多分どっちもだろう。

 庄内転封後、あれこれありましたが、忠徳さんの時代に入って本間家という四次元ポケットを手に入れます。以後、何をやらかしてもドラえもんがなんとかしてくれるわけです。まぁその前に四次元ポケットから出てくる黄金色の秘密道具を使うに当たりかなりの教訓めいたものも叩きこまれ(た事にしておこう)
 ヘタな治世は行わず、四次元ポケットから繰り出される秘密道具のお陰で藩士たちへの教育にも力が入ったのだろう。
 不況に対してはドラえもん達が事前に手をうっていたので農民達はあんまり苦しまずに済む事になった。(隠し田んぼがOKでな、すごい所に畑が在るのは、多分隠し田だったんじゃねーかな…と)
 借金は大体四次元ポケットを持ってる人が無かった事にしてくれたりしたので武士たちは生活に苦しむ必要はなくなりつつあった。それで、ちゃんと『さむらい』としての本文として武芸をみがく暇があった。
 文化的にも酒田湊が開けていた事もあって京が直結していた。

 江戸時代末期、その集大成として荘内藩は戊辰戦争を迎えVS官軍になった時、負け戦無しで終戦を迎える事となるのだ。

 江戸時代末期というのは明治維新、つまり大政奉還、幕府から天皇に国を治める権利を返す(武家が国を治めるのは、遥か昔の時代より天皇よりその職を預かっている、という立場である)に至る世情にある。
 ようするに、地方をおさめる国々が江戸幕府の統治についてゆけなくなり、ついに薩摩藩が反乱をおこすに至る事情を察してほしい。何かあればすぐ難題を押し付けられて、上手く国を治世するに最終的には金が絡み、借金返済出来ない国は更に治世が行き届かず荒れ放題となる。
 そういう背景にあって、庄内酒井は 『神田大黒』と呼ばれていた。屋敷が神田橋のすぐたもとにあったからだ。
 飢饉があっても無理難題を押し付けられてもなんとかするし、大火などで屋敷が燃えてもすぐ立て直してしまう。庄内地方の裕福さは、果ては江戸城大奥にまで聞こえ、件の三国転封を引き起こす引き金の一つにもなった。
 将軍が変わる頃に行われる地方の巡回記録において、東北地方はどこにいってもぱっとしないが、山を越えて庄内にはいると別天地と言われている。家畜は肥えていて、衣服は綺麗で建物は立派。話し言葉も丁寧で(京が直結してるから、北前船で)文化的にもきらびやかときた。

 光丘以後、庄内は飢饉があっても災害があっても、飢餓死者を一人も出していない。それでも庄内で野垂れ死んでいる死体が沢山あったそうだが、実はそれは、庄内にいけば食い物があると聞いた他国の人たちがたどり着いては力尽きたものであったそうだ…。

 金銭的な余裕、生活裕福の上には 余裕 というものが生まれる。
 そのすきまにこそ文化的な、そして思想や主義の上で大切な道徳を守る精神が育まれるものだろう。
 貧しいのにキレイ事をいっても腹が膨れる訳じゃない。
 腹が膨れているから、キレイ事を並べる余裕が生まれるんだ。

 まぁ、そんなわけで…江戸時代最後の『武家』の一つと数えて間違いないんだろう、

 酒井左衛門尉の別格家臣の家系として『酒井吉之丞』家というのがありましてな…(要するに親せき筋なのだ)
 ここで、戊辰戦争において『鬼玄蕃』と呼ばれている酒井玄蕃(了恒)が登場。江戸時代末期において極めて厳密かつ士道精神に正しく則り、君主酒井公の『代々続く家の名を汚さぬ様に事を成せ』との命令を極めて正しく把握し、かつ実践させてしまった人である。

 解りやすく言えば酒井忠治が数百年の時を越えてやってきちゃった、

 くらいのチート『武将』。というか、酒井忠治がそもそもチートだろうに、戦国時代でもないのに戦国武将来ちゃった!みたいな。

 ぶっちゃけて言ってしまえば戊辰戦争は西軍(官軍)の勝ちである。

 官軍が東北、上越においてどんだけひでぇ事していても、歴史は残念ながら勝った方の都合の良いように書かれるものだ。
 そして、負けた方の事はひっそりと秘されてしまうもの。
 いやまぁ、ぶっちゃけて戊辰戦争における東北勢(奥羽列藩なにがし)は酷いありさまでしたからな…残念ながら江戸末期で各藩金銭的な余裕はなかったようだ。武士としての矜持など忘れ去っていて、過去の栄光に胡坐をかいていて士道を磨かずにおいたとしか言いようのない散々な在り様。大藩である仙台からしてそうだったし、米沢も先々代が立て直したにもかかわらず以下略で、会津藩も早とちりが多く、長岡は超がんばったけど周りの援軍に恵まれてないときた。

 庄内は一応米沢や仙台に遠慮して色々口出ししないようにしたみたい、っていうか、口出しできないよねぇ援軍の立場だし、とかいう感じでやきもきしたらしい。

 私怨じみた幼稚な官軍指揮官に右往左往させられる東北勢の中、振りかかる火の粉は払うのみ!という感じで淡々と軍隊を退け、あるいは逆に制圧しては戦線を広げたのが荘内藩。撤退したのは椿台と、虚を突かれた関川近辺くらいであとは体外官軍を蹴散らしては、戦争だから略奪もやむなしというような連中から次々と村々を救っては『荘内様』と呼ばれたという。

 軍規読むだけで うほぅっ ってなるからね。
 こんな規則ちゃんと守らせる事が出来るって事は、それだけ心身と懐の余裕があるからだろう。…ってくらいになかなか厳しく事を書いている。
 戦争なんかになったらこんな風に体裁を守って士分として恥ずかしくないように、なんて行い守ってられなくなるのがフツーだ。

 ところが、ちゃんと守って行軍したってゆーんだから フツーじゃねぇ。

 実際荘内藩は極めて金払いがよく、略奪行為などしなかったし死者は敵味方関係なく弔ったので 軍隊が来れば逃げる農民達が、むしろ汁炊きだして歓迎しちゃってる位だったそうだ。
 お陰さまで地元民からの情報提供も受けられる。

 どっちが奥羽鎮撫軍だかわからんわwwww

 四次元ポケットが世界最新鋭装備揃えましたからね…。でも武器最新じゃなくてもぜってー強かっただろ、荘内軍。

 酒井玄蕃のチートな所は、忠治と同じくで先々のことまで考えて事を考えた所ですね。勝ったからといてただ領土を広げて行った所で『この戦争には勝てない』
 荘内藩にとって戊辰戦争の『勝ち』とは、戦争を止めて穏便に新しい統治に向けて建設的な会話をする事、だったりします。
 残念ながら残念な官軍の指揮官達の所為でそれすらできずにいたりしたのだ。それが戊辰戦争の本当の姿であろうと思う。

 今までお世話になった徳川幕府を裏切るような、士道に反する事は出来ない。幕府も柔軟な姿勢を見せて大政奉還等行っている訳で、別段反抗的になっているわけではない。何かと付けて反抗的だと言いがかりをつけているのが官軍の方であり、ただ単に血気盛んで東北やっつけておきたいだけじゃん?もうちょっと大人に話し合いをしてほしいんだけど、ちょ、撃ってきたし、そしたら防衛はするし、やられっぱなしは武士の名折れだしっ

 というのが荘内藩の立場。別段幕府を助けて官軍をやっつけよう!までは言ってない。

 奥羽列藩同盟もやっぱりそんな事は言ってない。

 言ってないんだが、列藩同盟の無能な一人がなんか同盟の主旨を間違えちゃってそれらしーこと言ってしまって言葉尻取られて墓穴掘りまくったらしい。…まぁようするに仙台米沢あたりがダメダメだったと。

 とにかく、そういう所を酒井玄蕃は間違いを起こさず正しく理解をしていて、それに沿った助言や進言を行っている。
 だから殿が、
 降伏して話し合いをした方がいいや、なんかあっちのちゃんとした大将がくるみたいだから話し合いできるっぽいし、
 という風に撤退を呼び掛けたら即座撤退している。勝ってても。

 *** *** ***

 かくして、荘内藩は会津藩のような悲劇を起こさず、むしろ薩摩藩とは大の仲良しになってしまうくらいに恩赦され…今に至る。本来なら敵味方なんだからいがみ合ってもいいだろうに、実際東北はどこにいっても薩摩憎しだろうに、

 荘内藩だけは西郷隆盛エルオーブイイーである。日本最古の同人誌発行するくらい。

 平和だったのね…戦争はあったんだけど、余裕の行軍で江戸末期一人戦国武将やってるくらいだったから、苦労とかを書き連ねる必要性がきっと、なかったのね…。

 加えて三国転封を唯一取りやめにした事件にしても、最後まで幕府軍として抵抗した事にしても、
 今見るとスゲェ事なんだけど当時としては国政とは違う事やっちゃってるからあんまり堂々といえる事でもない。

 最後まで酒井殿様が国に居る事になった庄内地方はこうして平和に平和ボケして今に至るのだ…。

 平和すぎるんだな、多分。他の地方はもっと壮絶な事が起きてるんだろう。人の死んだ数なんかもはんぱねぇんだろう、庄内地方は誰それが死んだ、っていうのを過去にさかのぼってピックアップし過ぎているとは思ったけれど、それは壮絶な最期を遂げた人の絶対数が少ない、という事に他ならないのかもしれない。

 最後まで戦国武将、だった都合もあってだろうか?他国(他地方)の人に無関心、というのが鶴岡民(武士側)の第一特徴としてあると言われている。未だに、だ。
 その弊害として新撰組の前身として狩川の清河某が作った浪士組の、荘内藩預けになった方(江戸治安取り締まりに当たった方)
 新徴組(シンチョウグミ)の、戊辰戦争後の壮絶な鶴岡における記録とかを読むと うぁお、ってなります。

*** *** ***

 ぶっちゃけて藤沢センセイが書くものを読めばわかる通り、残念ながら基本的には平和なんだよ荘内藩。

 ならば平和なりに平和すぎる事を書くしかないんだろうな、誰か(他力本願)
 平和だった、というむしろ異常な状況を書くしかあるまい…。それが、最大のネタなんだから。

 それにしても俺よくここまで理解したよな、たった4ヶ月の間に…
 我ながら酷いと思う。(と、四か月前の埋め立て日記を見ながら思った)

 これでもまだ全部詰め込んではいないと思ってる所、おい、お前、どこまでが全部だと思ってるの?
 と、セルフツッコミを心の中でキメてたね…。

 手元の資料無しで、頭に中にとりあえず在中した知識だけで勢いに任せて書いたので、若干読みにくい書き方になっているとおもわれます。埋め立てブログなので、ぶっちゃけてこうやって勢いに任せて書く事で自分の頭の中も整理する、という役割も果たしているのでご了承ください。

 じゃぁちゃんとした文章とは何なのかというと、
 それは小説なりなんなりちゃんと囲いを決めて話を組み立てた場合が ちゃんとした、になります。

 酒井家はEGさんがやってるからあえて手出ししようとは思わないんだよね、今こうやって徹底的に調べてはいるんだけど。
 それは私が四次元ポケットを追いかけている事情、どこで秘密道具が使われいるかを理解するにのびた君を調べておく必要があるからです 笑

 酒井吉之丞家と本間家の接点はあるかどーかというと、ぶっちゃけてあるんだよな、初代の段階で…。
 しかし初代だからその後どう関連があるのかどうか解らない。吉之丞家バリバリの武家なので、光丘時代になって商人でありながら士分、と云う風に本間家が藩に食い込んで行けばいくだけ疎遠になっている気はする。とりあえず懇意にしているという文章は見た事無いけど、吉之丞家から嫌われているという文章も見てはいない。どっちかっていうと菅家などに近い所からみて、そして菅家が本間家とはのっぴきならない関係な所から見て、割と昔から縁は在る気はするけれども。

 戊辰戦争時、本間外衛(光美)って500石になってんだね…そうか、そこまで増えてんのか。
 副隊長各より上じゃん、武家じゃないのに 笑
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研修って言って奴らは何を見てくるの? [シェブロン県の話]

改めて核P-の感想戦をやろうとおもったんですが、

思ったんですがやっぱりその前に書く事がたくさんあるじゃないかよと思ったのでそっちから。
この前のガタティアの事とか、突撃してきた東京の事とか、酒田市のアレとか…。
あと、実は風邪引いてました顛末記とか。
とりあえずようするに 地元ガンバレ!という事をオチとするべく一つ一つブログってる時間を近年ちゃんと取ってないという都合から…。

シェブロン県チョイスでややマジメな話をば。

*** *** ***

いやー何あの低投票率。大体察してはいたけど…市長選が絡まないとそこまで低いかそーかそーか…。

無関心ではないけれど関心するような話題が無いのも確かな話で、実に情けない話でもある。俺が、俺が!っていう熱意がほとんど無くて、あったとしてもその熱意に同じく熱くなってくれる人も少なくなっている。

そんなんでいーの地元?市議のみなさん、それで、酒田をどうしたいのか。それとも酒田をどうこうして自分が食っていきたいだけかしらん?

 形式だけを踏んで、それで得票が伸ばせるとでも?投票率が上がるとでも?投票率など上がらない方が良いのか、変な遊票でヒヤヒヤするよか、投票してくれる有権者だけが自分に、着実に票を集めてくれればいいとでも思っているんだろうか。思ってんだろうな、思ってるんだろう?そうじゃないと反論できる材料がないからそう判断されるよりないんだ。
 ゆえにどうすればいいのかというと、そう受け取られてしまったのならそれはそれでしょーがないので次にそう取られたくなければ努力をしていただきたい。

 とりあえず言いたい事はそれだけ。

 所で話は変わって、市議の皆さんはよくよく経費で研修旅行とか行く、らしい、んだけど本当かな?
 ドコいくの?県外?国外?いってどーすんの。ちゃんと行った先から自分たちの国(地域)を見てるの?考えてるの?

 現在の酒田市の惨状を見ると全く考えたりしている形跡が感じられませんぜ。

 県外には色々なすごい仕掛けがあるんだ。…ここ近年地元でそういうスゴいのに出会った試しがない。

 このスゴいというのには色々あるんですが、スゴいのやるにはまず自分の国(地域)にどんなスゴいがあるかを理解し、把握する事から始めなければならないものでしょう。
 残念ながら 外部から見て、外部が理解している者から 比 較 し て 、 という概念でしか我が地元のスゴい達は評価され、解説が成されていない。

 ダメ、それじゃダメだから。

 他人が理解している所を足がかりにするのは良い事だけど、スゴい事に庄内には足がかりがないスゴい事が沢山ありすぎるんだ。足がかりなど探していたら遠回りすぎる。

 スゴい事を具体的に説明するに、相手が理解している外部のスゴい事を例にしすぎだ!
 そんなことしなくても、ちゃんと順を追って解説したり、現代の物事に例えたりすることで当時のスゴいはちゃんと伝える事が出来るはずなんだよ…!!!

 *** *** ***

 というわけで話は変わりまして、先日突撃で三回目になるらしい(をい)江戸東京博物館に行ってきました。
…三回目らしいです(二回目がうろ覚えだけど、今回行ってきたらなんとなく思い出してきた。そして列をなしてだらだら通って見ただけだったのであんまり記憶して無かったんだ、と思った)

 ぶっちゃけた感想を申しあげますと、規模はデカいけど展示物もスケールデカいけど、

 そんなたいしたもんじゃぁない、日本人的には。

 すごい外国人の観光客が沢山いて、きっと彼らには非常に刺激的だったに違いないと思う。

 まずこの博物館は『東京』博物館でもある。故に、都内の学生は常設展示まではいつでも無料で出入りできるのだそうだ。うらやましい!そういうのがまず、大事だと思った。

 ゆえに、江戸から昭和までの東京の流れを見る事が出来る訳で、ざっくりやってしまうとまず、

 江戸時代っていうのがありましたー。

 明治維新、戊辰戦争でこの江戸時代の制度が崩れ、まずここで上野が焼け野原ですね。1868年。
 文明開化があって色々新しくなっていくのは良いんだけど…どんどこ戦争に傾いて行ってしまうのです。

 色々ありましたが1904年に日露戦争があってー1915年頃に第一次世界大戦だったか。まだこの頃は本国に上陸されてはいない日本なんですが…そういうのが次に、関東大地震で全部ぶっ壊れます。

 その後は第二次世界大戦が君を待っている、という感じで最終的にどうなったかは皆様ご存知の通り、本土攻撃にさらされて原爆が落とされ、降伏となりました。

 関東大震災から立ち直ったにもかかわらず結局東京は空襲で再び焼け野原になりました。1945年。

 そんなこんなで東京にあった古い街並みなんてのはほとんど破壊されつくして…現在あの状況です。

 ゆえに東京だけ見たりすると古い街並み懐古という事でオドロキもあるのかもしれない。
 ところがもとより古い街並みとかいうのを見慣れているとこれが、そーでもない。

 江戸時代的を感じられる街並みは、地方都市にはこっそり残っていたりするもので、実は庄内にはそういうものが非常に多い。
 かつ、江戸と同じく火事が多かったためスクラップ アンド ビルド が激しく昔の町と今の街の差が結構あったりする。

 ゆえに、規模は違えど江戸東京博物館で見れる展示物ってのは地元でも見れるんだよね。うん、規模は違うし地域も違うんだけど。

 ところがここ最近ようやく正しく理解したんだけど、江戸時代の庄内ってのは荘内と書くのだけども…。
 パワー的に言えば 江戸、大阪、神戸、京都、長崎、と並べて実はその次に来るくらいに東北一円(奥羽)で一番ナウい所だったんだよ…!!!北前船があったのと…本間がいたから(笑)

 ところが土地的に遠い事もあり、実はここがこんなに栄えている事は知られている事ではないようだ。
 江戸においては神田橋たもとに第一館のあった酒井家(荘内藩主)が神田大黒と呼ばれるくらいなんかしらんが富んでいた事は、大奥にまで聞こえていたそうだ。故の理不尽な領地替え騒動が起こったとも言われている。酒井家が諸藩に比べて裕福だったのは、だから、本間が(以下略)

 大阪におてはアレだろう、後で江戸に行っちゃうんだけど…大阪の米相場で全勝ちした出羽の天狗さんがいます。米相場を震え上がらせた分家本間の人な…故に大阪では出羽の酒田っつー所は以下略。

 とまぁ、もうすこし江戸時代までは東北において荘内とか、酒田とかいう地名が出てもいいはずなんですが…残念ながら外に出るとなかなか認知されていない。なぜか。

 荘内メインの歴史モノがあんまりなくて知名度が無いからです。


 藤沢先生はさ…どうして架空にしちゃったかねぇ……。いや、架空にしないと荘内藩主がヘタれなのが際立つからか…!?あと、あのチートを書かないといけなくなるからだな 笑

*** *** ***

 では江戸東京博物館は面白くなかったのか?否。

 最上階にある図書館が…はんぱなかった。ここ無料で入れるんですけど…え…ちょ、っ…。

 あそうだ、江戸東京博物館の常設展示の中にきっちりかっちり地元が出てくる所がある。戊辰戦争で最後まで降伏しなかった荘内藩を攻め落としに来た、イギリス製の戦艦が飛島沖で座礁したんですが(ざまぁ!)そこから引き揚げたものとかの展示がありましてねぇ 笑 別の引き上げ品を酒田の資料館でも見る事が出来ますよ。

 ここで地元と比較して考えてみるに、

 地元は資料が散文しすぎています!!!!!山居倉庫と資料館と鐙屋と本間家と本間美術館の一部は…

 セット展示してしかるべきだと思います。(それぞれに入館料が掛るから!!!!!)

 しかし縄張り争いとしまして 山居倉庫は作ろうよとそそのかしたのは(言い方)本間光美ですが、作ったのは酒井家側。
 鐙屋は純粋に36人衆側。
 本間家は後から来た豪商なうえに藩士もやっていたので立ち位置が別腹すぎる。

 …もしかしてそんな感じのナニカの都合もあったりするんだろうか。
 ともかく歩いて回れる距離ギリギリ(本間美術館除く)ではあるんですがそれにしても移動距離と、移動時間が観光客には致命的である事をご理解いただけていないのでは?と思う。

 こういうアホな観光地を作ったのは、他の観光地を見て回った事が無いからだと思う。
 車での移動が当たり前のように考えた作りもしかり。もう少し足回り、タイムスケジュールを考えてやって観光地づくりをしたらどうなんだろう。
ツアー客だけが観光客じゃないんだ、大事なのはふらっとやってくるバックパッカーや、コアな歴史ファンの方じゃないのか?
 ぶっちゃけて、今の観光地だけ見たって今私が展開しているような知識を理解出来るかって言ったら、絶対出来ないだろうって思う。解説が足りていない。

 これは鶴岡の致道博物館に行った時も思ったけれど、まず見て面白いと、歴史にあんまり興味の無い人も掴める解説を置くべきだし、子供も読めるように振り仮名は付けるべきだ。そして出来れば英語訳も!!!
 その点加茂水族館の努力は素晴らしいものがあると思います。加茂水が当たったのは観光客に向けてちゃんと努力したからだろう、その努力が見えるもん、ちゃんと。

 地元はさぁ、足元にちゃんとお宝埋まってんのよ?
 地元民がそれに気が付いてないだけで、その宝の磨き方を知らないだけじゃないのか?

 って、思いました。そんな江戸東京博物館突撃でございましたとも、

*** *** ***

 戦利品は江戸の古地図と現代地図を合わせた 歩いてみよう地図。
 こういうの作ってほしい、というか個人的に作りたいんですが 笑 その原本の地図どこで持ってのって聞いたら、酒田の奴は本間家だろうって言われて えー ってなってる。 あ、でも手書きトレスならいいんならトレスするわ、うん。

 うーん、ちょっと風邪が治りきってないので変に上から目線になった気もするけどまーいーやー。寝よう。
 あ、あとBGMがギプノザだから行けないんだと思う 笑
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荘内藩で狂犬病はあったか [シェブロン県の話]

借りる本借りる本佐藤三郎先生の本でうへぇありがとうセンセェーってなってます。

出来れば欲しいが多分、買えないよねぇ古書の扱いだよねぇこれ。…欲しい。

さて、本日は割と真面目なブログになります。埋め立て仕様じゃなくて、結構ガチ。
シェブロン県、庄内地方の江戸時代、すなわち荘内藩時代に 狂犬病はあったか?っていう。

 なんでそんな記事を、という事を先に書くとですね。
 庄内地方に昔あった出来事(ある程度は史実や日記などからあったとされている、とされているのでフィクションではない)をまとめた本をこの佐藤三郎先生という方は沢山出しておられており、主に新聞などのコーナーを飾っておられたようだ。
 で、今さら地元にハマったからこの先生の本を片っ端から読む訳よ。
 本はね、そこに文字があったらたとえCM欄でも隅から隅まで読んでしまう、という悪癖というかなんというか、そういうタイプの本の虫(というより文字の虫)だから、
 とにかくあ、ここあんまり僕が求めている話じゃない、あと、難し過ぎて(宗教関係については正直これだけは興味がわかないので理解しようとする意識が足りてないのだろう)解らない、とかゆーところも。

 なぜか全部読んでしまうんだ。うん、わからねぇ、とか思いながらもなぜか読んでしまうんだ。

 まぁそんなわけで読むのね。読むと、 おや?
 って思う所があるわけです。科学系に偏った趣味をしているから、これが史実に近いなら おや? っていう事が書いてある事がある。

 それがすなわち、狂犬病を発症した犬(であろう)から噛まれた人達が数週間後に 狂犬病の症状(らしき症状)を発症した、そして全員死にました…ってならなかったから

 おやあああ?!

 ってなったのでついついガチに調べてしまったという事をまとめます。

 あの…結構ガチにそれだけなんで読みたい人だけ読んでくだされ

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ブログって何書くんだっけ? [シェブロン県の話]

っていうのに詰まって昨日ブログをしたためなかった(結局家に籠っていたのに)
こんばんわ、RHです。と、挨拶をしたものの…

昨日そういえば何書けばいいんだろうってなってしまって結局書かなかったよな、

と云う事をじゃぁ今日はネタにするという事でブログをしたためます。

うん、いまね、やっとこシゴトに新しい人が来てね、それはまぁ来たばっかりだからまだよくわかんないんだけどそれ以外にシゴトの事が若干ストレスになってる問題もあるからヘタするとその事を書いてしまいそうでな。

なんとなく仕事グチは書きたくないよね、とか書くけどここまで書くと…

遠まわしに書いて埋め立ててしまいたい。

そんな欲求もあったりします。でもガマンしよ。そのうち酒の席でぶちまけよ。

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 日常的な事、連続で書いているなら差異からあれこれ書けるんですが、ここの所サボってばかりで月数回という体たらくでございますれば。

 とりあえず、もぅ寒いです。ストーブ的なものが恋しくなってきたけど、今コイツを発動させてしまったら真冬の季節どうすればいいんだ!?と云う事になるなと思って重ね着で対処しています。

 稲刈り、始まってます。まだ全部丸裸にはなってない。
 紅葉は…まだこれからなんだねぇ。そうかそうか、それから梨…は、もうぅ始まってる。柿はこれからだそうだ。うん?柿ってそんなに後だったっけか?でも…夏の台風で柿の青くて小さい奴がよく落ちてた記憶が強いから赤くなるのはまだこれからなんだね。

 シェブロン県名物芋煮はまっさかりです。
 そして前々から思っていたけど、イモニ、ってちゃんと芋煮、に変換してくんないんですね。早く実装しろ!

 毎年言ってる事かもしれませんが、シェブロン県は庄内地方における芋煮の具材は豚肉であり、味噌ベースです。牛肉?醤油?ふざけんなし。と云う感じです。
 噂によると近年塩ベース、という味が開発されているそうです。肉は…何いれんだ?鶏か?
 でも鶏無双の秋田県沿岸部は別に塩風味じゃねぇべ?

 ところで、この頃になると地元ラジオなんかでも都度話題になる話なのですが。
 芋煮にあつあげは、入れますか?と。
(あつあげとはようするに油揚げの事だが、シェブロン県では薄い皮状のものは皮揚げとして区別され、あぶらあげ、というと中に豆腐状態のものが残っているモノを指す)

 芋煮材料そのいちー まず、芋っこー。こちら里芋を使います。ジャガイモ使う場合は豚肉ベースの場合ただのトン汁ですー。
 そのにー 肉ー。詳しく言うと、庄内地方では味噌ベースなので主に豚バラ、および豚コマ切れ(各種部位の端を含むコマ切れ化されている肉の事を当て字で小間切 という 業界用語っぽい)
 脂身がイヤな人はモモあるいはロースを使う人も居る。リッチに仕上げるなら肩ロースお薦め。
 個人的に言うと庄内豚バラを使った奴が一番リッチだと思うんだがな…。今バラ肉の需要が高すぎて三枚肉なんて通称が通らない単価設定になってますからね…フツーにモモの方が安くなってます。

 内陸ベースだと牛で醤油。しかしお前さん、豚肉に比べて牛肉は高いじゃないか。まぁ、そんなわけで一般的に内陸の芋煮は輸入牛肉、主にナーベルエンドやトップサイド、クロッドなんかが使われてんだろーと思う。アメリカ産まだあんまり入ってないみたいだから未だオーストラリア産だろう。(自重なく専門用語)
 解説するとオーストラリア産牛バラ、牛モモ、牛肩、(およびこれら混合輸入牛コマ切れ)。という感じなのだけど、大体単価がそれぞれグラムあたり200円切るのが輸入牛。
 それを国産に変えてごらんよ。1・5倍から3倍の値段になるんだぜ…。(国産ホルスタインからF1牛、および径産、黒毛和牛までの幅)

 さて話すごい脱線した。

 材料そのさーん。 こんにゃく。シェブロン県民大好きコンニャク大事。
 角こんを使います。基本的には手でちぎります。お上品に包丁などで切るのは邪道。いくら好きだからってたまこんは入れんよ…?いや、売り切れてたらたまこんちぎって入れるけど……


 材料、そのよーん。ごんぼー。ささがきしたゴボウですよ。

 材料、そのごー。キノコ類。お好みで。豚肉ベースにはしめじで、牛肉ベースにはマイタケ入れる約束でもあんのか?よくわかんねーけど…。

 そのろくー 長ネギー。やっぱりこれを入れん事には…なぁ?

 そして材料庄内地方そのななー。
 あつあげー。…内陸では入れないのかな?なぜか、ウチで出してる内陸風牛芋煮には厚揚げいれない。何故か、というかまぁ、イメージとしてあんまり入れないよね。でも庄内地方の豚芋煮では入るんだ、厚揚げが。

 その他ニンジンやら何やらはお好みでどうぞー

*** *** ***

 基本的にはこれらを切って鍋にいれてダシで煮込んで酒いれて、最後に醤油および味噌で味付けすれば完成するのに何故煮た状態のものを求めるのだ…?自分で煮ればいいじゃないか…。

 鶴岡人は鍋を洗うのがそんなに嫌なのか。

(ややカイシャグチだ)

 先に磨き粉を水で溶いて塗っておけばすんごいキレイに煤汚れなんて落ちるのに…。金峰自然の家とかで教わる先人の知恵が生かされてないよ……

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 気が付いたら荒らぶって書いてたな…。ここ最近の地元熱でつい地元の事だと熱く語ってしまう。

 地元の事かくとあれとかこれとかそれとか調べたい見に行きたいすぐそこにあるんだよあぅあぅあー!!!

ってなるから本当にキケン。

さ、ブログも書いたしネーム切ろうっと。あ、結局地元の事しかかいてないじゃない、マイカテゴリーはシェブロン県の事に変えておくか。
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ほほぉほぅほぅ [シェブロン県の話]

先日色々調べてきて危うく庄内藩の面白おかしい(オイ)説話集(古文のママ)を読み込みそうになってブレーキかけてきました。こんばんわ、色々地元の事がよく理解出来て いまさらかよ! 感タップリのRHです。

にしても本当に資料物件が少なすぎて、どこからナニを引用してきたのかとかが即座解りまくりで目頭が熱い!

そして庄内藩側の資料はそれなりに一応(現代語への訳については進んでいるけど公文章としては少なすぎる)あるみたいなんだけど、
 …酒田側の資料がなかなか散文してて気が付くと庄内藩側(鶴岡側)の資料読んでたりする。

というか、そっちの公文からなんとか拾い上げるしかないのか…そんなばかな。どっかにあるはずだ。

 というわけで資料探しまだ続く。

とりあえす三十六人衆攻めればいい事がちょっと解った。というか、本間家がどのタイミングで三十六人衆側にかかわったのか、ってのが分からんでいたんだけど。もしかして、別格として三十六人衆に数えられた事がないとか?そもそも、三十六人衆についての理解も超中途半端だったよね!ね!

 と云う感じで…ここの所ジモトを調べて思った事とか書きます。

*** *** ***

 そも三十六人衆とは!!!
 酒田の酒の名前!!!(正しいけど、違う!!!!)

 っていうのが第一で(殴)
 次に、ようするに酒田の有名な組織の名前である、というのが第二。
 管理側のエラい人達であるらしい。というのが第三。
 36人に限ってる訳ではなく、時代によって三十六人衆ネームプレートがとっかえひっかえだった、というあたりまではうっすら把握。
 港にかかわっていた、というのが最後に記憶のかなたに。

 …大体、あってた。合ってたけどほとんど忘れてたよ!調べてみて、あーあー、これ小中の時にやった!やったの覚えてる!ってなった。

 酒田湊の管理を行っていた人達で正しい。しかしその歴史については結構古く、隣鶴岡の殿様が現代にまで続く(続いてんだよ、庄内特例で…日本唯一っぽいんだけど)酒井家、の庄内藩より歴史古いでやんの。

 で、豪商一族だという事記憶に寄る所間違いなく本間家関わってるはずなんだけど さてはてフフーン。

 こう、学生時代の歴史って世界史とか一方その頃、という横の連動が弱かった気がするんだ。少なくとも私はその、横の連動を繋げて考える事が授業の順番の都合上手く出来ず、やや苦手科目となっていた(A.暗記授業だから)
 横連結まで考えていればもう少し好きになっていたと思う。こう、歴史の好きな所=興味のある所、っていうのはあるわけですよ。横の連動が分かれば、そういう好きな所に繋げて覚えて行く事が出来たと、思うんだ…。

 それはさておき。

 港の整備、管理をしていた豪商が36人衆。必ず三十六人常に埋まっていた訳ではないそうだ。

 この湊の管理、には湊に入って来た外来の人たちの世話、というのも含まれていたようである。

 それで、あー…って思ったんだけどガチな話、私の祖先は酒田市一番街に家を構えておりましてな、当時のモノクロ写真なんかだと大抵木村屋(大火で燃えてないので建物は変ったけど健在)とかト一屋とか(残念ながら燃えたが場所変らず健在)大沼とか(勿論燃えたが現在中合清水屋として一応健在)出てくるんだけど

 一緒に写ってますね。はい…まさか、とは思ってましたが、その祖先の実家の目の前にある喫茶ケルンのマスターと話をするに後々理解した話としまして、その建物まさしく俺ん家の元実家!!!学業終えてから暫くそこに住んでてそっから仕事場に通ってたよね!!!

 実は、酒田大火(とはいっても大火実は一杯在りすぎてアレなんだが…大体一番最後の、大火)でうちの元実家の目の前から東が燃えちゃったのだ。うち、ギリギリセーフだった。
 今は残念ながら建物無くして駐車場になっちゃってるんだが、
 俺、結構貴重な建物に住んでたんだな…と、ちょっと改めて思った。いや、大火で燃えてない、大分古い家だという事は知ってはいたんだけれども…。

 さて我が祖先の実家。

 何をしていた家なのか全く分からないwwwwww orz

 聞きたいと思った時には知ってる人がほぼ皆無でした…。あとは…親父だな、今捕まえるのが大変なので(長期出張中)まぁ、暇を見つけた時に色々聞いてみたい、とは思う。

 何をしていた家なのか全く知らない私でしたが、いつぞやしたためた埋め立てブログにも書いた通り、お向かいの喫茶店のマスターから教えてもらうに
『世話役のなんでも屋』的なものだった…とか。
 …聞いた時は全くピンときてない。だがしかし、今資料を読み込んで色々思い出しつつ理解するに…。

 ようするに、外から来た行商人達の宿的な位置にあり、面倒をみる仲介屋&宿

 的な…在る意味面白そーな場所だったっぽいのでは…という確信が強まってまいりました。

 …ようするに湊使う人達のギルド的な。旅の出会いの酒場(酒場、では無いとは思うが)的な。
 って書くとワクテカするだろ?私ぁワクテカする。
 ちなみに屋号的なものはドストライクなのでここに書く事は控えます。でも、場所的な都合でバレちまう気もしないでもない。

 ちなみに『肝煎』という役職がありますな。ようするに、世話役です。
 三十六人衆の中にもこれにあたる役があるようです。ということは、三六人衆に私の本名名字が親せき筋的なもので載っている可能性もあるかもしれない!一応、親戚に土門拳とかが居たりする…と関連をつけようとしてみたがしまった、土門拳親戚は母方だった!!!(笑)今調べてるのは父方の方だった!!!

 *** *** ***

 ぶっちゃけ、本間家の方を調べているがこれがまぁコウキュウさんその後がよくわからん。かといって旧本間邸に資料があるのかどうか…案外、本間美術館の方があるのかしらん?どっちに求めている資料があるのかさえ外的に調べられないという状況にそもイラだってきてますねw

 光丘文庫の方があるのかな?でも、こっちこそ古文多すぎてお手上げしそうな気もする。
(とはいえ、在る程度の古文であれば一応は読めるので気が滅入る訳ではない)

本間家は世襲だったのかどーなのか、士分は金持ちすぎてもらっとしても、武家じゃないからそのあたりきっちり調べて残されている訳じゃぁないのか。ふーむ…。

 というわけで酒井家および庄内藩に残る資料から酒田の方についての情報を読み取ってみるんですが、これが本当に気が付くと庄内藩追っかけてて罠すぎる。でも、庄内藩側調べている人に言わせればこっちはこっちで資料少ねぇ!古文で読めねぇ!解読からか!とか言っている訳で…。

 こう、本当に純粋に酒井家庄内藩の読みものを思わず膨らませたくなる衝動にかられます…。

 ところがどっこい、酒井との様が近すぎる!近すぎるからちょっとそれやるの怖い!

 今鶴岡勤務してるからすげーわかるんだけど、酒井殿様健在だわ、家中新町の老中家の皆さん健在だわ、紹介頂いたザ!ガサーンの菅さんなんか旧家がっつり残ってて見学可能でお花やってる先生がいて(以下自主規制)

 とにかく近すぎて怖い 笑 店に来る人たちばっかりじゃねーか!!!!

 調べれば調べるだけ庄内藩はガクブルする。楽しいな、オイ…
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調べるとドツボにハマる [シェブロン県の話]

まぁよくあることです。調べ物をしましてウィキ先生なんかを開きまするとね、
あらここの意味がよくわからないけどリンク貼られてあるから読んでおきましょうかね、とか別窓クリックしていくと際限ない状況に陥る。
 で、途中でギブするとか、あ、これ俺が求めてる情報じゃないって理解した段階で窓を閉じればいいのに。

 面白いから読んどく。

なぁんてやって時間をあっという間に消費しきるっていう。

 …いやだがしかし、全くの門外漢…というよりはまぁ、あんまり興味が無かったトコロ…を調べるうちにハマった場合はちょっと事情が違う。

 頭に詰め込むに基礎がまず出来てないので、まず基礎から入るわけです。
 で、この基礎をどんくらい固めているかによって最終的に自分が目指す…例えて建築物の、実際の生活圏としての間取り…みたいなものを想像するのですが、
 あんまり基礎を広く固め過ぎてもね、後で立てる家が大きくなっちゃって管理に困る、的な状況に陥るのが目に見えている。

 故に、専門的ではない(それはイコール、元来私の趣味範囲ではない、的な意味)トコロに興味を持ってしまった今現在、基礎固めをやるべく調べ物をしたけどそーんな広い範囲を調べまくる事にはならなかった。

 そんな気がする。

 そーだいなたとえ話から始めましたね。
 
 カテゴリー、見てください。久しぶりにシェブロン県の話ってなってるよ。あったよ、マイカテゴリーにあったんだったそーだった(忘れてた)

*** *** ***

 地元本を作ろう計画(どーじんし)がありまして、それを夏に向けてやるぜ!という事になっているのでボチボチとやってました。
 アレね、風邪で死んでたガタティア新刊とその同時期にあった二次新刊が片付いた(正確には創作の新刊は片付いてないが)後に、体調を元に戻した所でこっそりと…着手し始めました。

 ええと、はい。まず基礎からです。ぶっちゃけて言うと社会科は得意科目では無く、現代におけるバサラとかムソーとかいうののブームよろしく送れて侍騎兵隊なぞに当時カブレていたわたくしめは、勿論そういう経路から戦国時代 だけ が好きでした。そんな社会史ッ。

 でも割と伊達には興味無くって、どっちかってゆーと南の方の武将が(以下略)

 とはいえ、一応そーゆーのが好きな都合60人以上、というアホな人数を抱える創作ブツの代物があったりして(創作時期はトビラ同時期かそれよりも前だ)それの人物名(名字)が全部戦国大名という縛りをつけていた。
 で主人公はナニかっていうと 南部 だった。微妙に地元周辺ラブだったのなら大人しく酒井にすればいいのだが、当時からややひねくれていた私は主人公のライバル位置にいる味方、を酒井にしていた。というか、その創作物における主人公が熱血漢ではなくて現代ライトノベルにおける主人公みたいな感じのテンション低い奴だったので、そう言う都合酒井を付けられなかったのであろう。多分。(当時の意図は流石に、設定人数が多すぎてよく覚えてない)(酒井キャラは火属性の熱血キャラだった。そして主戦力の人 笑)

 駄文ですね、さて本題に入りましょう。

 僕は戦国武将は大好きだったけどその当時の地元における武将とかの話は日本史においてそんなメジャーではなかったとかいう都合、ぶっちゃけあんまりくわしくない。…ンジャマイカ…?

 以上。

 というわけで改めまして、郷土の歴史をひも解く所から…。始めたいんですが、
 
 500年遡ってとかやっていると、実際好きジャンルとして歴史を専攻してこなかった都合辛い。
老体に鞭打つような感じだ。あと、本気でやると多分キリがない。

 もちょっと、絞ろう。なんというか…もっと地元に密着して、地元民であるにもかかわらずよくわかって無かった、っていう大きな事件を追ってみよう。

 それで、白羽の矢を立てたのがまず戊辰戦争付近であり、庄内藩という奴であり、それを一番身近に捉えるとするなら酒田民としてはそりゃー、本間様だろJK?と云う事になった。

 今回は、そのあたりをようやく調べて今さら解った事とかこれからやりたい事とかの日記である。

*** *** ***

 ぶっちゃけてこの埋め立てブログは私の埋め立てられるべき創作ブツのあれこれとか、日常のあれこれとか、ゲームのあれこれとかでなりたっている。

 そういうブログの延長線上であるという事を前おいた上で話を進めます。

 えー…とりあえずだね、友人様からの洗脳(?)的なものでまずぶっちゃけて 『新徴組』というものに興味がわいたのがきっかけにあります。というか、まず、何なのそれ?から始まりますよ?

 …新撰組と似てますね、そうです、出たとこは同じなのね、その後色々違うんだけれども。

 けど、そういうの社会科でやりましたっけ?うーん…ちょっと、学生時代の教科書とかまだ、車庫に残ってる筈なのでちょっと…近いうちにひも解いて調べておこう…。
 ぶっちゃけて学業真面目にやったクチではないので学んだけど、覚えてない確立高い。

 色々面白い説話があるんですが、それ、絶対庄内人しらないよね?
 って言う話を沢山聞きました。で、そう言う話は一体どこに残っているのかと云うと…

 メジャーな書物には書き起こされていないという現状がある模様。

 ようするに庄内を舞台にした歴史上の人物を物語化したりして頒布する人が 藤沢センセイしか大御所においてはいらっしゃらないと。しかもフィクション。

 そんな、バカな…と云う事で私もざっと調べてみましたが…ないでござるね…。

 せっかく会津藩が八重の桜でスポットあたってるのに、会津と同盟組んでた庄内藩にも興味を持って貰える大チャンスだというのに…情報の皆無さには目頭が熱くなるぜ…。

 このあたりの下りも面白そうなんですが、新徴組については更なる調べが必要そうだしすでに友人様が色々調べているようなのでとりあえず置いておく。これはどっちかっていうと酒井家城下町である鶴岡方面の話だ。その隣町、大商家本間家のおひざ元である酒田市民としましてはまず、今現在は没落してしまった本間家の当時、って奴を調べてみるべきだ。

*** *** ***

 日本一の大地主、本間様にはなれねぇがせめてなりたや、お殿様。みたいな歌さえある事は、知ってる。
 それは小学生の頃に習ったので覚えている。流石は酒田民だ自分。

 でもぶっちゃけてどんくらいスゲェのかがピンとこないよね。

 …当時日本一の大地主なのに、今じゃ没落しちまって…ねぇ。本間物産も本間芝玉も…ねぇ。

 で、調べて行くうちにガクブルするのね。ぶっちゃけて新徴組とか、庄内藩の問題にも繋がってて 本間家はんぱねぇ、ってなる。

 思うに 本間様にはなれなくても、との様にはなりてぇな、とか詠まれしまうのって、

 庄内藩主酒井家がジリ貧だったからじゃないの

 って勘ぐるくらいには基礎を固め直してみました。はい。詳しい事は改めてここで書くまでも無いに違いない。多分私が無学なだけ、だと、思いたい。

*** *** ***

 一番本間家が輝いていたのは 忌み名における光丘さんの頃、になるんでしょうか?いやいや?
 ウィキ読む限りだとそこから先がよくわからん。
 戊辰戦争前にいかんなく発揮されたホンマパワーの説話と、光丘さんが御存命であった時期とで50年以上ズレがある。まぁ、ぎりぎり米沢藩(ヨーザン氏)をバックアップしたところに光丘さんの意図は感じる事が出来るわけだけど…。

 本間家の、次の当主が調べられなかった(ようするに庄内藩藩主11代目と会話してた本間家の人の名前)私目は、学生以来となりながら学生時代以上に熱心なご様子で地元の歴史施設を爆撃せねばならない様相とあいなってまいりました。

 気になるじゃないか…庄内藩主11代を超バックアップして無敗のまま戊辰戦争を終えさせてしまったという説話における…ホンマパワーがどんくらいであったのか…微妙にそれが、よくわからんwww

 というわけで次の休みはだね、山居倉庫とか鐙屋とか本間家資料館とかをだね。

 そのあとに…鶴岡の致道館とかにも調べに周りにいくわけですね。

 …うーん、とりあえず…興味ありそうな人にメール回して道連れを募ってみようか。

*** *** ***

 ところでそんなん調べてどうするかって話ですが、冒頭ちらっと書いた通りです。

 地元どーじんしの為に調べています。

 そんで冒頭の冒頭に戻るのです。

 調べ始めるとね、ドツボにハマってとことんやっちゃうんだ。
 でもドツボを埋めるべき基礎は…こんくらい…って一応範囲決めてからハマったので…
 とりあえずは新徴組追っかけるのはブレーキ掛けてみてるよ!とりあえず本間様攻めてみてる!!

 というわけだ。

 おめー、どーじんしの為にそこまでやるのかとか言うのは、ナシだぜ?趣味の活動なんだ。ドコからやるのかなんて趣味の度合いだ。他人にとやかく言われる筋合いはねぇぜ 笑
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ホーゲン [シェブロン県の話]

 言葉ってのはやっぱりおもしぇの(おもしろいですね)と思うのは、極めて狭い範囲の地域によってはぐくまれちゃった一つ山の向こうでは通用しない言葉なんかがある事を知った時なわけですよ。

 あと、地方に住んでるとよく思い知る事ですが、標準語だと思って使ってた言葉が他では全く通用しなかったりもする。

 一応こうやって文字を撃つ趣味を持つのだから、この埋め立て駄文ゴミブログはともかく…創作小説の方でそーいう恥ずかしい事をやっていない事を祈る限りです。

 あとはまぁ、なんだ。
 ジャンルがファンタジーなのでそこ特有の言い回しデシタとか言い訳かましてみたり、か?(殴)

*** *** ***

 最近覚えたホーゲンがたくさんあります。覚えたけど覚えただけであって使う訳でも、使える訳でもない 笑

 だって、それをネタにしたってどーしろと?という感じもしないでもない。

 でも今日はそれで文字を撃つけど 笑

 まず最近のクリーンヒットおよびその超限定派生形として…小虫(精々ハエ程度までの大きさの飛ぶ虫)を表現するホーゲンとして『めめ』とゆーのがシェブロン県は庄内地方でも使われているらしい。

 わしは聞いた事が無いが。

 で、調べてみると この意味でこのホーゲンが使われているのは…和歌山県…あれ?ん?

 最近大分網羅されてきているんだろうけれど、それでもまだまだネット世界が把握できていない事は多いのではないかと思う瞬間である。

 少なくともツルオカシティでは使われているとの事。
 というか、私ん家はフツーに会話すると東京弁なんだよ 生まれも育ちも実家もシェブロン県なのに 笑

 ばーさん家に行くと割となまりが聞けるんだけど、そも親父っさんがバリ東京語を使いますもんで…

 まぁそんなわけでホーゲンの事については人様ん家の事情なんかを聞いて結構、へー ほー だったりするのです。

 あと、ばーさんじーさんらが何をしゃべっているのか解らないまま多分ここまで来てる可能性大。

 さてそんでまぁ応用としてこのめめちゅーのを日常で使うとしよう。

『 これ、めめ飛んでだ、めぐせごど 』
(あっ 小バエが飛んでる、うるさいなぁ)

『 はえだだきよごせっちゃ 』
(ハエタタキどこにある?取ってくれない?)

 とかって。実際そこまでは使わないけど まぁ

『 めめいっだ~ 』
(小バエが飛んでる~)

 くらいなら応用が可能なわけです。ところがこの方言をド忘れした某人が めめ を みみ と言ったお陰で、今現在新ホーゲンとして ミミが応用されています。なんか可愛いよね、という意味で。

 こんな感じで

『ミミ飛んでだー』

 いや、実際小バエはウザいんですってば。

 きっと、方言の地方による特殊発達ってこんな感じの緩いテイストだったんじゃないかなと思う瞬間ですとも…。

*** *** ***

 庄内地方における「そうだ」という同意を示す言葉として『んだ』だあります。
 割と日常的に使うので我々、使っててもほとんど違和感感じてない。付属語として の や ろ なんかがあります。

 私は半東京弁使いとして割と んです を使う気がします。が、これも割と他方では通用しねぇんじゃないかと危惧する次第であります。

 もっとも方言というのは私個人の認識としては 親しい仲で使う崩れた言葉である、だったりするのでホーゲンで話すのはよっぽど親しい同郷の人くらいだろう。
 オートメーションで標準語(割と堅苦しく聞こえる)が出てしまう癖がついてるので これをいきなり他地方の人にかました事はまずないと思います。

 あと、イントネーションが庄内地方は京言葉が元になっている都合あんまりヘンじゃないのね。
 これが隣の秋田とか、山形内陸とかに行ってみなせぇよ。ふつーにしゃべってるつもりなのにイントネーションの仕方が根本から違うからどーしてもなまり言葉に聞こえちゃうんだから。

 んだ 続き。

 『そうです』に値するのが『んだ』なわけですが他に…ギャグではなく。
 『お』というのがある。

 実際には『オウ』なのでようするに『応』って事なのだけどこれを男女問わず使うのでなんとも不思議な感覚だったり。なんとなく古臭い、そしてどこか形式ばっていて、どちらかというとオノコが使うイメージを持ってた所為かな?
 鶴岡の海側、温海方面にこれを使う地域があったりして、お陰さまで電話で話すだけでどこの人なのか解るわけです。

*** *** ***

 自分の事を私、とは使わないのが地方の特徴、なのかもしれないとふいと思った。
 私、というのはあくまで標準的に入って来た言葉であって、この標準語を学校等で習った訳ではない高齢の人たちは男女問わず自分の事を『オレ』って使うのね。もっとも、そうするとすでに70オーバークラスを今は想定しなければいけない訳だけど。

 大分昔に亡くなったうちのひーばさんも『オレ』使いだった。
 なんでおばあちゃんには自分をオレと使う人が多いんだろうなぁ?という疑問がそーいやあったなと思いだす。
 オレ、というのは自分を示す『己(オノレ)』が崩れたモノであろうと思われます。またオレの他にオイとかワイ、なんかもあるわけです…いや、オイは庄内地方でも聞くけどワイは無いな…

 こんな事をほじくり始めると…言語とはいかようにして発展するか、という事を考えすぎて自分のソーサクではどーだったかとか墓穴を掘り始めるのは、いつもの事。

 *** *** ***

 八精霊大陸シリーズ。…さすがにそこまでは考えてなかったと、今さてどーやってつじつま合わせようかとか考えてしまう、ほんとダメ設定バカです。
 ファンタジー系の統一世界設定の事ですが、八精霊大陸に括られている地域はみなほぼ同じ言語を話す事になっている(そういう背景がある) ただ、地域によっては多少特有の言い回しがあり、文字にすると逆に差が色々あって共通認識が難しくなる。漢字圏があり、逆に漢字を全く使わない地域もあり(ひらがなオンリーで文字が構成されている)古代語分類の横文字記号を使う地域もアリ。

 最初に合ったのはカナではなく、やはり漢字なわけです。

 なのに漢字を使わない方面でワタシやボクが使われている背景はどうやったらねつ造出来るかな?

 いや、違うのよ。そこまで設定する必要がそもそもないのよ 笑

 でもついついそういう多分大いに無駄な事をしてしまう。

 ついでに例えば、バンクルドなんかのものすごく崩れた汚い言葉は実際問題としてどうなのかを考えてみる。
 言ったでしょう? が 言っただろーが になり
 しょうがないですね が しょうがねぇだろ になり
 少しは見習ってください が ちったぁ見習え になる

 この崩し方はよくよく使ってしまうわけだけど、…もしかして方言括りなんだろうか?とかたまに思う事もあります。

 SRPUの主人公とかがこのタイプなので、ここまで呂律の回ってないクダ巻いた口調でいいのか?いや、こう言わせないとタカキじゃねぇしな…という感じもしたりして。
 ~なのではないですか? を ~なんじゃねーの?
 とすると…

 もしかして地方ホーゲンに近い?とちょっと…通用するのかドキドキしたり …今さらだな 笑


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うそ…だろ…? [シェブロン県の話]

今日、朝起きて窓の外を見た瞬間に呟いてました。

ま だ つ も る の か!!!!

しかも月曜日なんだぜ!?

せっかく道路の雪が減って来て、路肩に壁になってた奴も順次トラックに乗せて川や海に運ぶ余裕が出てきた途端にまた大積雪かよ…orz

 今日はもう、あれだ。
 みごとに自分ん家の敷地内から道路に出れませんでしたからね…なぜって、除雪が家の前まで入って来てはくれないからですよ朝一番では。

 しかし出勤日なのに出れねぇとか言ってる場合ではないのです。
 飛び起きてしたくして雪用スコップ持って掘りましたさ!

 お陰さまで今の所この冬、遅刻はしてないんですが…市内に入ってから30分以上は軽く5~10k移動の大混雑ってのはそろそろ勘弁してほしいかもしれない…あああ。

 雪国特有の大抵どこの地域で変わりの無いであろう混雑する理由 

 その1 路肩に寄せられた雪の為まず基本的に道が狭い(だから右折車の為の二列目が形成できない場合がある) 
 その2 路面が凍っている所為でスタートダッシュが遅い(一旦停止してし待った場合、路面凍結しているとタイヤが路面をグリップ出来ない都合どんなにアクセル踏んでも空回りする。ヘタするとシリを振る(大抵は前輪駆動だからなぁ)(そんな時4ダブはいいよね))
 その3 スリップが怖いから基本的に速度を出したがらない人が多い。
 その4 止まれないのも困るから基本的には車間を開けておきたい
 その5 学生さんの通勤の為に出動するおじいちゃん・おばあちゃんのk自動車
 その6 普段使われているショートカットコースが雪の為使えない(農道なので冬季除雪が入らないのでその道は走ろうにも走れない)…故に、主要道路に全部の車が集まってくる

 こんな感じだろうか。
 特に2番が地味に辛い。大型道路、国道を含んだ交差点なんかで横も縦も混雑している場合で渋滞している場合、青になったらさっさと発進して道路を向こう側に渡り切りたい所なのだが…そのスタートダッシュがやりたくても出来ないんだからなぁ…

 明日はどうなのかなー はぁ…今週一杯って話はどっから出たのかしらん?うちのおばあさまがそう言って慰めてくれたけど、根拠が無いとねぇ。

*** *** ***

 話は全然関係ないものに飛びます。
 というか、今回はただこれだけで〆ようと思ったんですが唐突に思い出した事がありました。

 シェブロン県関係ない話ですが思い出してしまったので書く。

 …先日、夜の帰宅の途での事じゃった…。

 白いKトラ(軽自動車トラック)が雪道の脇に止まっておったのですよ。何やら作業員のみなさんと一緒に雪掻きをしているようでした。某工事現場近くなので、何か電気系統とか何かの都合、緊急に雪に埋もれた所を掘り出す必要があったのだろう。
 しかしまぁ、もう夜だしフツーこんな時間に工事現場で作業はしないはずだよなぁ…何してんだろう?という事でその脇を、轍に気をつけながら通り過ぎたのです。

 通り過ぎざまに見てしまった。

 トラックに、白く輝くKトラックにだな…。

 黒くて立派な文字で『ライトニング』って書いてあるのが。

…ライトニング商事とか、何かだったのかもしれない。だがしかしその時、私の頭の中には自動的に『輝け!』の人とか『その身に刻め!』とかの人が出てきたとおもいねぇ!

 そこから妄想は一気につっぱしった。
 もしかするとあのKトラはライトなんとかさんゆかりの自家用車すなわちチョコボって事か!
(どうしてそーいう妄想に走ったかと言えば、私の車にマイ・チョコボ騎乗中ステッカーatFFT が貼ってあるからである)(まぁ、ろくでもないけど)
 
で、どうだ。
 もしも、だ。

 チョコボをKトラックに置き換えてみたらどうだよ?
 いや、Kトラは空飛べないし川も渡れないけどよ!?
 でもほら、Kトラって基本『白』『青』『銀』くらいしかラインナップが無いじゃん。カスタマイズで色塗った奴とかもあるにはあるけどさぁ。
 バッツがkトラ叩きながら『俺の相棒さ!』とか言うんだよ。お守りとしてドアミラーとかでも持ってんじゃね?ライト兄さんが目をキラキラさせながらマイチョコボをゲットしたとして荷台にコスモスのみなさん乗せて走るんだよ。ぜってーティーダとかジタンとか楽しんでんじゃね?案外スコールとか助手席で運転の仕方がどうだとかあーだとかうるさいんだよ。ライト兄さんは兄さんでスコールガン無視でハンドル握ってたりして軽く人格変わるんだよ。オニオンあたり車に酔ってそうだと思うに100ガバス。
 …ちなみに荷台に人乗せると違法なんだけど。
 案外暗黒セシルは荷物扱いされて違法取り締まりを免れてたりしてな。

 とかいう妄想が瞬間的に走り抜けて去りました。
 我ながらよくわからないスイッチが入ったなと思った。

 


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