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庄内伝統食事情 [シェブロン県の話]

RHさんは最近地元レキシにすっかりアレされているわけですが、

今地元鶴岡生まれの時代・歴史小説家である藤沢周平センセイ全部読みにチャレンジ中です

で、ようやく10巻まできました。まだ半分も読んでないし、読み始めるきっかけになった探している話にもたどり着けていません。

 先日、時代物ものである 用心棒日月抄 を全シリーズ読み終わりました。これ、大変面白い。とりあえず藤沢センセイどっから読めばいいの、って聞かれたら今の所用心棒読めばいいよって答えようと思ったくらい。特に一番最初。構成がまずすごい。それでいて読んでめっちゃ面白い。それに比べると最後の狂剣は、これはこれですごい趣のある作風だけど謎解きが多すぎて結構頭がこんがらがる。とはいえ、用心棒シリーズは割とそういうちょっと複雑な構成を持っていてそれが面白いのだから多少、人物多いというのはしょうがないかな。

 個人的な好みを言うと、初期と云われるちょっと暗めの話が結構好きだったりします

 ま、それはいいとして。

 今回タイトルがタイトルなので藤沢周平せんせいの小説面白いはおいといて。

 この、東北の小藩モデルが荘内藩と云われる このシリーズから、庄内人として思う事をちょっと書きます。

*** *** ***

 藤沢センセイの作品には荘内藩モデルの架空藩『海坂藩』モノがあります。
 日月抄は、明確には海坂モノではない…というか、さる小藩、としか出てないけど藩主の名前や役職名からすると若干ウナサカ寄りだ。

 でも実際庄内にある寺が出てくる。

 そう、四作目の狂剣冒頭から登場する『般若寺』

 他、地元レキシを追っかけていると、ウナサカよりかは荘内藩寄りだなぁと思う描写が結構多いのでニヨニヨ出来る。
 江戸の屋敷の場所なども、わりと荘内藩の江戸下屋敷に近い。

 あと、食い物が完全に庄内 笑

*** *** ***

 ところがどっこい!
 地元歴史を調べていくと、この時代小説をだね、『歴史小説』として考えてしまうと頭をひねる事になる事案が出てくる。

 特に。特に!その、完全に庄内ですありがとうございました、という食についてに、だ!

 でもそこは問題ないのだ、何しろ用心棒日月抄、これレキシじゃない。ジダイさんである。時代小説で史実を多少はなぞるけど基本創作ジダイ小説。

 歴史に照らし合わせてオカシイところがあっても全然問題はない。

 具体的に述べると、庄内の食の歴史は結構古いまま今も残るものが多い、とはいえ!それでも遡って江戸初期から中期まではいかねぇんだ、その頃には無いはずのものがあるぞおおおお!

 ジダイモノなんだからそんな目くじら立ててはいけません、でも、背景的に真面目に検証してしまうと、これは忠臣蔵があった時代の少しあと…と言う事になるから完全に江戸前中期だ。

 ここから下の箇条書きは、レキシだったらアウトだろうという話です。ジダイさんなら問題はないので、庄内では今もこんなのが大体昔から食べられていますし今も旬なら(旬じゃないとないです)食べれますよ、という事でガッテンしてお進みください。 

 ・民田ナスの漬物 …RHさんちょっとした都合で荘内藩のお漬物事情を調べた事がありました。…違うんです、枝豆(だだちゃまめ)調べてたらたまたま赤カブ(温海カブ)の所にワクテカする話が書いてあって読みすすめてしまっただけなんですが

 江戸中期というと大体、荘内藩主的には忠寄~忠徳と考えていいでしょう。荘内入部初代酒井家3代目(ただしこれは忠次から数えて)の忠勝から数え、忠徳は9代目です。
 温海カブはこの頃から江戸に漬物用に納入するように、という古文書が残っているそうで、在来野菜種の歴史としては二番目に古いという。

 つまり。庄内特有の小丸ナスである民田ナスの歴史はあつみ赤カブ程ではない。
 日月抄の時代背景は忠徳よりも前の話になる。この時には、レキシ的にいうと民田ナスの存在は確証されておらず、これらを現在残る様に辛子漬にして当時食べていたかは…微妙なところだ。

 ・筍(孟宗竹) …作中孟宗竹と書いてあったかまでは忘れてしまったけれど、孟宗竹といえば京都料理です
 実は、孟宗竹を食用として庄内は今の産地、湯田川地区で栽培(栽培なんだよね)されるようになったのは…どう遡っても江戸後期から明治頃なのだ…。時代背景的には、ちゃんと調べてはいないけど…この食べるようとして栽培するようになりその方法を先方から習ったというから江戸の話ではあるまい。明治になってからだろう 
 実はそれまでは、筍は食べていたかもしれないが今の谷定や湯田川のような劇的な旨さのあるものではないのだ。あれは、今は定着したのかもしれないけれどちゃんと『栽培』された孟宗だから美味いのだという

 ・だだちゃまめ …とまで書いてあったか定かではないけど、とにかく枝豆。茶豆の選別優秀個体より分けが進んだのは調べがついています
 完全に明治の話です!ただ、宮城あるいは会津から新潟経由か、どちらかのルートで香茶豆種が入ってきているのは間違いない。でもやはり…江戸中期ではそこまでベタ誉めするほどの洗練されたものではなかった可能性が高い。

 ・こんにゃく …残念ながら山形県は消費量ナンバーワンのくせに生産量は低く、近年ようやく栽培するようになったくらいで割と生産北限といわれております。
 こんにゃくは、『江戸後期』頃にコンニャクイモを粉末化して売るという方法が発案されたため、爆発的に広がったとされる(航路で拡散したものと思うが、発祥は水戸…茨城だったはずだ) 
 もちろん、京文化直結(北前船で酒田湊が京直結でした)だったので早いうちにこんにゃくは入荷してきているだろう。食文化輸入はすごくあったに違いない。だが、それは!酒田の話で鶴岡まで酒田の『流行』が流れたかはなかなか微妙なのである!酒田に比べて鶴岡は武士の町…いくら藩主が公家に理解あったとはいえ(あったのは忠徳の子供の忠器だし)京料理が鶴岡民まで届いただろうか?
 ましてや、時代背景的には光丘以前だから(←)めっちゃ貧乏よ、荘内藩(笑)神田大黒云われるのは江戸中期から後期の話である

 ・庄内に限った物じゃないけど…『鱈のほっぺ肉乾物』
 これな、これ…松前開発が盛んにならないと出現しないんじゃあるまいか…と思える。
 江戸中期っていうとようやく西回り航路が開かれ、そっからようやく幕府が松前の資源に目ぇつけ始めて昆布が爆発的に日本国中を圧巻するその直前くらいだと思うんだ…実は昆布が庶民の口に入る様になるのって、結構遅い。

 あー、でも鱈って江戸時代でも日本海で捕れたんだろうか?だとしたら乾物は存在するし、それが西回り航路で江戸にあってもおかしくはないなぁ…。でも基本沢山取れるようになったらから喉とほっぺは切り落として別に乾物にしたんじゃないかと思うのだけどどうなのだろう?ええと、この問題はカマボコ生産地を調べなければならない訳だな…太平洋側でもいいのか…?宮城のササカマボコの歴史なんかを調べる必要性がある…と。

 ・醤油の実 …庄内オンリーではないけれど、北前船の出入りするところで作られているものと見れる。ところで、最近友人から頂いた本に良いデータがありまして…これ、各家で手作り発酵させて食べていた、とウィキセンセイにも書いてありますが。庄内の四次元ポケット事本間家でも独自醤油の実、作ってますね…何時から自家製にしたのやら。
 本来醤油屋で搾りかすのカスから作った副産物だったのだが、これが美味しすぎるという事で最初っから醤油のみとして作られるようになったという。
 ところで、庄内には味噌屋と醤油屋が少ない。というか基本味噌は自分ちで作るものだった記憶もあるけど…(昔は作っていたよウチも)醤油屋は海側より食べ物に乏しかった山の方が多い傾向があるそうだ
 庄内、食い物は海も山もあったので発酵食品や発酵食品添加物による味付けがあまり必要ではなく、そういう都合少なかったのではという憶測は当たっているように思う。
 醤油の実は味噌と同じで、もっぱら商家で自家製していたものらしい。
 はたしていつ頃から作られるようになったのか…これは昔からあったのかもしれない、と思う。
 なぜなら、荘内入部酒井家はもともとは三川武士でお味噌の国の人である。今もってその名残は鶴岡に色濃く、鶴岡の食文化的には『なんでもかんでも味噌汁にしてすする』というイメージが強い(私は酒田人)
 味噌は自分家で作る、というのが昔からならば、醤油は醤油屋で作るとしても醤油の実という発酵食品程度は各ご家庭で作ってた可能性は大である。

*** *** ***

 他にもあった感じがするけど時間が押してきたのでとりあえずこんなカンジで。

 あ、魚については昔から変わってないと思われます 笑 小鯛(一般的にはアマダイの事だそうだ)の話は今も…今はどうかなぁ、漁獲量のモンダイがあるけど、とりあえず昭和年代頃まではガチだった模様。

 さて最後に何が言いたいのかというのを。

 日月抄はジダイな小説であってレキシモノではない。
 藤沢センセイはその線引きが厳しい方とお見受けするので、完全に時代モノと割り切って地元の食べ物の話を出し田に違いないと思っている。だから、以上の事は全くいちゃもんではないのだ。念を押す。ただ、レキシ的に見るとこうだよ、と云う話です。 

 では問題は何か。 

 他の作家さんでどうにもレキシに寄った小説を書いた場合、
 藤沢センセイが扱っていたから当然と同じように荘内藩の昔からのソゥルフードとして
 以上のものを江戸時代に描くのにはチョットマッテ!

 しなければならない…と言う事である 

 うん…とりあえず孟宗がまず引っかかるね…戊辰の時あったかなぁ…微妙だなぁ…ギリギリかなぁ…と思っている。
 私の予想では戊辰戦争んトキはまだ谷定も湯田川も孟宗作ってな気がビンビンにするねぇ…

 ただ、筍料理は結構昔から食べている文献は古い本間家のアレから拾える。本間家基本質素メシだから(たとえ正月でもだ)正月早々山菜とか食ってる始末だけど、冬の時期に筍ッって事は何か保存食的なものだと思うんだけど…違うのかな?どうなんだろう。昔って筍どうやって保存したんだろうねぇ、やっぱり茹でて塩漬けかな?

 食文化って、結構昔の事は分からない事だらけで追えない事が多い。
 こんなに身近なのにねぇ、一昔前、何を食べていたのかを追いかけるのが難しいのだ。それだけに、レキシ資料開くだけでは食文化の事は分からない事が多く、全く別の所からアプローチして調べなければならない。
 それだけに、結構テキトー書かれているものは少なくないなぁと思う。
 まぁジダイさんなら問題ないんだろうけど…。
 だからこそ、ジダイ小説からレキシ小説参照してはならない。それだけはチョットマッテ!
 時代は簡単にひっくり返るし、正しい事が伝言ゲームのごとく上手く先には伝わって行かない。故に…

 地元のレキシ小説と銘打ってある奴……藤沢文学から安易に抜粋して書いてないか?と思う事がちょっとある。
 いや、ジダイ小説だとしてもだ。
 ちょっと藤沢リスペクトが多すぎるのに気づいてしまってうおおお…ってなってると思いねぇ 


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