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しちがしゅく~越え~ [旅の話]

あるいは、しちかしゅく……七ヶ宿……この読みをだんだん覚えたいんだけどたまにど忘れします

 江戸時代、庄内藩も参勤交代の時通った街道、山中七ヶ宿街道の場所って……どこやねんって調べたら想像してたルートと全然違って全く通ったことがない道路であったため、


 行ってみよう!ってなった去年の記録をお届けします。
 メインの目的は委託販売のみで展開した みちのくコミティア に一般参加する、でした。これもまた別記事でそのうちに書きたいと思います。


 新型某の所為で実は県境を越える事じたいリスクだったのですが、時期的にはいったん落ち着いていた時期だったのでエイヤッとプチ旅行したものです。その、一番最後のクライマックス(帰路)でした
 このプチ旅もまた別の記事にしましょう。

七ヶ宿地図.png

故に、この地図スタートとゴール逆ですわ……間違えたけどルートはこの通り間違いないのでこのまま進めます

 七ヶ宿街道とは、奥州街道と羽州街道を結ぶもので江戸時代の参勤交代で使われていました。参勤交代とは、江戸と国(治めている藩)を行ったり来たりする事です。江戸時代、江戸地以外の地域は多く『殿様』が収めており、その都合江戸時代にはたくさんのお殿様がおったのですね。ちなみに江戸じゃなくても『天領地』という江戸幕府が直轄管理していた地域もあります。
 庄内地区で言うと、殿様が跡目を残せず断絶して幕府にボッシュートされた大山地区や、余目地区などが江戸中期には天領地でした。

 で、殿様は国元(藩)の統治のほかに、江戸幕府に仕えて仕事をするノルマが課せられていました。江戸城には徳川の大将軍がおります。この将軍を頂に、各藩の殿様がこれに仕えて……自分とこの国(藩)で家臣らがしているような仕事をしていました。どういうお役目になるかは家柄とかで決まります。
 城警備から大樹(将軍)の側用人まで。
 江戸幕府は殿様らの妻や子供は基本的には江戸に残すように命じており、江戸住み用の屋敷を持つ必要がありました。しかし、江戸幕府からお給金が出るわけではありません。江戸屋敷の運営資金やら、国の運営資金やらなにやらは自分の国(藩)からひねり出さなければなりません。
 参勤交代とは、各国(地域に散らばる藩)が力を蓄えて江戸幕府に反旗を翻す事が出来ない様に『浪費させる』江戸幕府の孔明の罠の一つなのですね。
 ちなみに罠はもっとたくさんあるんですが、とりあえず今日のブログの趣旨から外れるので知りたい人は歴史沼に浸かりに来ればよいと思います。


 参勤交代のルートは前もって決められており、もしルート変更をしたい場合は江戸幕府にお伺いを立て、許可を貰わないといけません。


 七ヶ宿街道は、東北の日本海側を走る『羽州街道』と、太平洋側を走る『奥羽街道』(もっとも岩手は山ん中で奥州(北東北)のほぼど真ん中通ってる感じだけど)を合流させる街道です。
 上山から上記の地図の通りに山道を越えて、白石の下、福島市手前の桑折に抜けます。ここで羽州街道は終わり、奥州街道に完全に合流です。


 昔のこういう道路は、そのまま現代の国道などになっていることが多いので、私はてっきり七ヶ宿街道って蔵王の手前、国道48号線の辺りを通っているのだと勝手なイメージをしていたんですが……長年その道を通っても、それらしい地名を見たことがないし他に古い道がある気配はない……高速道路が通っている川崎経由も同じく……っていうかあそこ途中下道が途切れてるじゃんね……(昔から車で行ったり来たりしていていろいろ迷ったりなんだりであっちこっちの道路通ってます)


 ってことは、どこだ??


 レキシ沼にはまり、庄内藩が参勤交代で使っていた七ヶ宿街道イズ何処??ってなって調べてみたら!
 おう!なんてこったい、白石より向こう側に抜ける道路なんだ!


 *** *** ***


 なんで七ヶ宿街道が気になるかというと、ここは庄内藩江戸時代中期の一種の、クライマックスを誘発した大事件が起きた場所だからです。


 ここは端折らずに書いてしまいますが、というか実はこの七ヶ宿事件の無配(無料配布漫画)を作ってたんですが(ネームは切った)イベントが軒並み中止とかで結局私も完成させずにおるので今年はこれを完成にもっていかねばなるまいな……
 ってことで細かい所はそっちでやるとして、ざっくりとその事件を説明すると……


 庄内藩の家臣が江戸昇りの途中で七ヶ宿に泊まったところ、仙台藩士と鉢合わせ。その所為で宿の主人の態度が酷くて、それに腹を立てた庄内藩士は無礼打ちにしてしまった。
 その事件を上司に報告したところ、庄内藩基準で藩士の責任を軽く見て処理したところ仙台藩(七ヶ宿は仙台領です)から『意義あり!』って七ヶ宿の手打ちされた宿の人たちから訴えがあり、すったもんだする。
 その後、参勤交代で国(庄内)に帰る途中藩主が七ヶ宿を通った所、何か不快な事が起きたらしい(具体的に何だったのかは調べたけどわからんかった)
 そのために国から江戸に戻る参勤交代ではここを避けて通りたい、となった。
 江戸幕府にルート変更のお伺いを立てたが、返事がなかなか来なかった。結局ちゃんと返事を貰わないうちに、江戸勤めの都合帰らなければならない期日が迫って来たので参勤交代出発、七ヶ宿街道を避けて米沢の街道(板谷街道)を使った。
(ちなみに板谷街道は米沢から奥州街道、福島側に抜ける道路なのだが今は国道や高速道路が別の所を走っており、途中から車で進む事が出来ない徒歩専用悪路。ここを使うのは米沢藩だけだった)

 他の藩が米沢まで抜けて板谷街道を通らなかったのは、なかなか辛い道路でもあったからです。
 そうして奥州街道に出て江戸に出た庄内藩でしたが、一方の仙台領ではいつも通るはずの庄内藩が七ヶ宿街道を通らなかったのがモロバレです。幕府から既定の道を通らず参勤交代したことを咎められ、また七ヶ宿からの訴えもあってダブルパンチ。この責任を取る方向で、当時権力を思いのままにしていた藩の首脳陣が退陣する事になったのでした……


 ……っていう。

 没落したのは具体的に言うとありちゃん(酒井忠徳)が水野派を退けて採用した竹内&白井政権です。

 一気に勢いを失って、おかげで水野派が返り咲き、本間家も藩政に引っ張り戻されるという私的には大事件なのですね。
 そーじゃなくても江戸に昇るとき、船を使わない限りはきっと同じルートをたどるんだから推しが通った街道は通ってみたいじゃないか!!!


 と、そういう都合でここは通ってみるしかねぇ、ってことで帰路に無理やりねじ込んでみたのでした。


 *** *** ***


 ぶっちゃけて……大変な山道でした……。でもま、車が通れない板谷街道とか月山越え六十里街道とかよりかはまだ……みたいな。
 庄内藩、参勤交代はさすがに六十里街道は通りません。最上川を使います……。


 具体的な事を言うと、桑折から七ヶ宿街道に入るまでの道、小坂峠はまぁ、予測していた通りの山攻めな感じでハイハイ山道山道、という感じだったんですが、そのあと。多くの宿が沈んだダム沿いの国道113号線は素晴らしかった!絶対また行く!
 ダムを過ぎると問題の七ヶ宿。そして……人が通る事がなくなってしまったというのが分かる、なんとも寂しい風景が続く(ここで陽が暮れる)

 で、街道を忠実にたどった場合国道113号線を進んで高畠・赤湯方面には抜けずに……上山がある北の方へ山道へ分岐する必要がある。
 陽はすっかり沈んでしまった。
 私が帰るのは庄内、高畠方面に抜けると距離的には遠回りになる。つまり、上記の地図の通り上山方面へ向かう金山峠を通った方が近いように……地図の上では見えるわけです。
  江戸時代の頃からこの分岐はあって国道113号線をまっすぐ行けば二井宿で、県道13号線を進めば金山峠越えで上山宿なんですね……。


 道路的にはどっち進んでも同じような気がしたんですがうん、罠でした。


 具体的な例を挙げれば鶴岡の新潟県境、関川に向かう道路を山道にした感じですね。地獄です。

 狭いのにグネグネでしかも激しい登りと降り。

 うへぇこんなとこ参勤交代したんかうへぇ~!!!と思いながら、真っ暗な森の中をひたすら車とすれ違うことなく通過するハメになりました……いやぁ、あれは結構辛かった……。
 次も通りたいとはぶっちゃけ思わない。うん、次はちゃんと遠回りでも国道通ろうね……。


 また、この悪道はランクス君のラストロングランになったものでした。
 今の車、ヤリスクロス君ならなんとかなるとか、そーいうレベルじゃないのよ……細くて、しかもめっちゃうっそうとした森の中で見通しが利かないからいつまで続くのかもわからんちょっとした恐怖と、同じような下りヘアピンカーブが続きすぎて えっ、この道さっき通らなかった!?ってなる恐怖がないまぜになったなかなかのスリリングな道路でした。
 銀山温泉からの宮城抜け道路もなかなかなものでしたが、あれとはまた別の意味で二度と通りたいとは思わない峠道でございます……。


 しかしダム脇の国道は本当にキレイで、紅葉の時期は確かにドライブ最高だろうなぁと思いますね。道中にあった道の駅とかも、時間的に寄ることが出来なかったので、雪が解けたころに再チャレンジしたい所です!

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