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時には後ろを振り返りて [最近見た漫画か動画]

本日は久しぶりにガチのターンです。

ガチガチな上に恐らく長いので(これから書くのにw)
お付き合いいただける方はお進みください。

テーマは一応最初に決めたんだけど脱線して別の話になる可能性も無いでもない。
行き当たりばったりに行きますイヤッフー。

 カテゴリにちょっとそぐわないかもしれないけれど一種メディア論というか何というか。

 少しツイッター絡みかな。というかブログでもホムペでもSNSでも何でもいいのだけれども。

 前に進むもいいけれど、時には後ろを振り返れ。
 貴方の瞳はどこまでを見渡す?
 地球は丸い。光のように、直線状の視界のドレイ。(byHIRASAWA)

 なのにどーして 見えず聞こえず遠くの事が『分かる』と言う。

 

*** *** ***

 まず原則というか一つの足がかりとしまして以下の話は…
『人間はあらゆる方法を用いて基本的には他人からの理解を求める生物である』
 という事を前提に、
『それはすなわち『知覚』という事であって、共感とは異なる』
『でもまぁ出来れば共感してもらえると実は嬉しい』
 的な事を前提に書く事をお許しいただきたい。

 いやそんな事はねぇ!
 と思ったのならどうぞ遠慮なく『そんなはずが無い』という意識の上読まれるも良し。
 何らかの共感を求めて読み進めるのならば、そーいう人には無用の文章が続くとは思いますが。

 とりあえず設定厨としましては、何を書くにも『設定』ってのが大事でありまして。

 実際私の論調や主義は置いておくとしても、こういう前提でとやらない事にはどこまでもー限りなくーとディパーチャーに話が白い雪原に脱線をしていくのであります。

 ええ。まぁ、いつもの話なんですが。

*** *** ***

  5年前、貴方はパソコンを持っていただろうか?
 持っていたとして、それは今あるワールドでワイドなウェブにつなげる事が出来ていただろうか?

 出来たとして、それをどれくらい活用出来ていただろうか。

 ブログは始めていただろうか。
 誰かに自分を知ってもらう為に日記なんかしたためていただろうか?
 本来日記って、誰かに見てもらうものだっけか?

 学生時代交換日記ってのがあったなぁ…。

 そのようにたった5年を振り返ってもう一度今に戻って来てみる。
 昔は、人の声は基本的には小さなものであってしかるべきだった。稀に声の大きな人もいたわけだけれど、それは『特別』であったりしたわけだ。
 声が大きい、というのは分かりにくい表現だったかもしれない。
 ようするにそれは今でも隠語として使われる訳だけれども『話す言葉や意見が多くの(時に無作為に)人に通る』という意味です。

 声が大きい人は特別だという認識がその時、無かったと言い切れるものだろか?
 声の大きさとはすなわち自分の意見、意識の拡大に等しい。声が大きいだけ、多くの人に自分や自分の意見というものを知ってもらえる。時に声だけが通って見知らぬ者にまでこちらが認識せずとも知られるという事にもなる。
 そこに声の大きさによる弊害も潜んでいるようにも思うけれど…。
 不思議と多くは声の大きさに憧れたりしてたんじゃぁないのだろうか。
 なもんで、声が大きい人は特別という潜在意識が生まれている可能性は否定は出来ないような気がする。

 それは、たかだか数年前の事情から鑑みられるかもしれない一つの可能性としましょう。

 声を大きくするのに最も手っ取り早い方法は当時何だったか。
 それは、テレビに出る事だったろうと思う。ネット人口が爆発的に増える前だったと思うから、まだテレビの方だったんじゃないかな。

 しかし今に戻って来てみてどうか?

 テレビに出るにはまさしく『特別』が必要だったわけだけれど、今はテレビを使わなくても声を拡張して伝える事が出来る時代となった。
 多くの人が大声で話しているから、より大きな声を上げないと話が遠くまで伝わらなくなった。

 *** *** ***

 見知らぬ者が自分を知っている。あるいは、知っていてくれている。

 ちっぽけであろう自分を見てくれている。知っている。

 設定から鑑みれば、人にとってこれ以上の喜びは無いと言う事になるわけで。
 基本的にどんなツンデュレイでも(専門用語)嬉しい事は嬉しい以外の何物でもない。
 それが外部に漏れるか漏れないか恥ずかしく漏れ出ているかの違いでしかない。

 ブログやホームページであればカウンターの数。
 ツイッターであればフォロワーの数。
 SNSなら足跡の数。
 総合ビュー数の数がダイレクトに喜びとして返って来ていると言う事になる。
 それを、はたして本心から否定出来る人間は居るか、居ないか。あとはもうどうやって平常心を保つか保たないかに掛っている。そこは素直に喜んでもいいと諭されたとして、じゃぁビューワーが減った時俺はどうすればいいんだと、言い訳気味に『カウンター数なんて、そんなの、興味ないんだからねッ!』とか反応しちゃう人もいるに違いない。

 しかしそーいうのはこうやってしたためない限り『マイ・ワールド・ストーリ』すなわち『俺の物語だ』という感じで極めて閉鎖的で他人にとってはどーでもいい話に違いない。

 ああそれ俺だわー とかいう共感を得る事によってこういう私の駄文が一時的に貴方のものになる。
 だからと言って私がこれを読んでいる人を理解した事にはならないのに、この人は俺を理解している!という錯覚に陥り時に満足し、時に執着し、時にヤな感じーとか思うだろう。
 そういうものを求める事を否定する訳じゃないけれど、そういうのはどこまでも『マイ物語』だ。
 極めて私には関係ない。
 どんなに共感を得られようが、得られまいが、関係ないというスタンスによってこれら駄文は書き連ねられている。

 でないとまぁ、こんな恥ずかしい文章は書けませんと。

*** *** ***

 でも多くは、共感によって容易く結合し、他人の世界と融合し、手の届かない世界に手が届いているような錯覚のうちに一種満足や、快楽を見出して生きている。
 何しろ『設定』上、それが『実は嬉しい』んだから嬉しい事をわざわざ拒否はしないだろう。

 別にそれが孔明の罠だ、というわけでもない。

 ただ、一つ困った事が起きうるような気がする。

 それは、自分の声が大きくなっていると『錯覚』する事。
 実際ある程度は大きくなってるんだから手に負えなくなる場合がある。
 声を大きくし、どこまでも届かせる事にはリスクがある。それは、ブログの炎上事件とかもっと分かりやすい例を出せば某とか某の政治家のみなさんなんかが分かりやすいんじゃないだろうか。

 大声を張り上げ、共感するものが居れば誰でも正義になりうると『錯覚』すらしている。
 時にその声に威嚇されて譲歩してしまえば、声を荒げた者が正しい、正しい事をしたと思ってつけ上がる事もあるだろう。

 大声をあげて泣きわめき、駄々をこねる子供か己は。

 正しい事を主張するのが必ずしも正しいとは限らない。その理由は誰かに答えを出してもらうものではないだろう。ちったぁ自分で考えろ。

 大声上げるにはリスクがあるから、仮面をかぶって大声張り上げる奴もいるとかいう事はご周知でしょうから今回追及はすまい。

*** *** ***

 ツイッターやってると、たまにもっともらしいお言葉がフォローされて巡り巡ってくる。
 なるほど納得ゥ!と思う事は多々あれど、はたしてそうやって声をトランスミッションしていく事はどうなんだろうな。

 他人のエクスタシーに便乗しているだけか、ただの正義感か。
 バーカお前、ツイッターはそういうツールなんだよ考えすぎるとハゲるぜ?
 というお言葉もどっかから聞こえてくるわけですが、ツール(道具)と言うならばそれに意識奪われるのもどーなのかなーとか言う辛辣かつ世をすねた声も聞こえてくるわけです。

 ようするに『設定』が気に入らなくて必死に踏み外そうとしているからそういう事を考えるんじゃないの?

 人は、あらゆる手段でもって他人の理解を求める…という前提が、大前提ではない事をどことなく祈っている所があるかもしれない。

 なぜなら…今手段が『あらゆる』になってしまったから。
 共感が得難い理論を持っているものが容易く共感者を見つけ出してしまう。
 共感を得て、自らの正義を他人によって見出す者の、共感せざる者からの不理解は甚だしい。

 そういう共感はとても危うく、脆く、幻想に近く、ぶっちゃけ画面の前のヴァーチャルでしかない。

 生身の人間とガチに向き合って得られた共感と比べたらどんなもんかは『リア充』なんて言葉があるくらいだから言うまでもないだろう。それくらい、本来共感とは得難いものに違いない。

 なのに『でもまぁ共感してくれると実は嬉しい』という感覚の元、手の届かない幻想の世界で共感だけが広がっている。…ような気がする。

 多少そういうのに危機感とか持ってもよくね?という事を書いてみた次第であります。

*** *** ***

 ちなみに蛇足。
 何かをクリエイティブする者は、大凡この共感というものを頼りにしているのだろうと思う。
 基本的には共感を得る為に何かを創造するんだろう。あるいは、作ったモノへの共感を求めて多くのもの目に触れられる場所にそれを置いてみたりするんじゃないかと。

 で、自分のフィーリングを全面に出す場合と、他人のフィーリングを図って創造される場合があるだろうと思う。基本的に肩書にしている人は後者だろうと思う。

 こんくらい書けばドージンシフィールドを愛する私がどっちの意見を持っている事なんか容易くバレちまうような気もしないでもないが 笑

 でも一番巧妙なのは、作り手の意図が『理解出来ない』じゃぁなかろうか。
 共感は出来る、だけどどういう意図であったかは測れない。知れない、知りようもない。

 そういうものにこそ偉大なる穴があって、その穴に容易く『自分』を埋め込める。

 で、そういう偉大な穴のある作品は最高のエンターテイメントだろうと思ったりするわけですよ。

 思うだけで自分では全くそんなの創れはしないんですが 笑 


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