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本能の詭弁 [動物の話]

緩急余話ってことで久しぶりにガチでもやろうっと。

とはいえ、今創作やっつけている都合思考は大凡それの為に使われているのである意味それに関連した作った話っぽい意図が多いですけれど。

 ところが、その思考の原点である作品が ま だ で き て い な い。

 ネームは出来ているけど、(それはつまり、どういう話の流れでどういうシーンがあってどういう会話があるのかというのがコマ割単位で一番最後まで完成していると言う意味)…原稿として完成しているのが現段階結局1/4。(途中合わせれば3/8くらい)せめて半分出来ていてば必殺、『続く』を実行に移す事も出来るのだけれど…うーむ、一応この段階で続くにしてもおかしくはない状況ではあるけれど…やめよう、と。

 すわ、今週末発行は諦めようと言う思考に達しました。

 1ページ以上仕上げるの、時間さえあればどーにかなるのかもしれないけれどどうしても、後半クオリティが下がるような気がして。

 なら、これから11月まで。一日1ページ仕上げでじっくりやりましょうや。そういう結論を。…あとはサボらないで続けられるかだけど…ああ、結局最後にはまたヒィヒィしそうな気もする。

 とにかく、そういうわけなのでその自分が吐き出したものに対するその後の思考については、出所を語ると『まだ秘密★』というしかない。

 そんな状況ですがとりあえずは、動物の話で。

 …人間だって動物でしょうよ?

*** *** ***

 しっかし、急激に寒くなりました…東京では未だ夏日が続いてるとか伝えられてますが、すでに20度行かない日がありますからね。寒いです。猫殿の為に猫ヒーター(正確にはおひとり様用椅子ヒーターカーペット)を起動。それでもモノ足りぬと、今現在ニャゴニャゴ言いながら奴めは私の膝上にて丸くなっております…。足がしびれるまでね。

 しかし、原稿仕上げるには割と適温かもしれない。

 それはさておき、唐突ですが人間の本能ってなんだろう。やっぱ、食う寝る排泄って奴だろうか。や、食う寝る排泄は逆らいたくても逆らえない生物的な機能であって本能ではないのだろうか…というか、それも含めて本質的に備わっている能力として本能なんだろか。

 『性欲』はどうなるのだろう。多くはこの、時に存在的にある欲求を根本としていると曖昧に断言出来るかもしれないし、一方で完全に理性によってこれを封じ込められる人もいるという。
 というよりは、密かに惑わされながらも惑ってなどいないッ!とばかりに毅然と自分を律する…ガマンの極みスキルが発動しているだけか。

 なんでそんなガマンせなあかんのよ、という問いに向けては実はヒトには『矜持』というものがあってこれをダイジにする特性があるからかもしれない。
 とするとそんなにプライドは大事か?という問いも浮かび上がってくる。
 それらを守らなければいけないと言う思いの根本には、やはりプライド、矜持、すなわち『自分』を保持し守るという『本能』が働いているのかもしれない。

 食うも寝るも排せつも、元をただせば『自分』を正常(すごく曖昧で幅の広い意味で)に保つ為の機構とも言える。
 どこもかしこも動く為にエネルギーを必要とし、熱を排出する為に他からエネルギーの元を得てそれらを体内で燃やす。
 始終動きまわる為にエネルギーを求める。しかし世界には昼と夜があり、エネルギー取得に働きまわるに不効率な時間帯が在る事を知り、同時に『休む』という事を覚えた。年中休んでいればあくせく動きまわらなくてもいいのだけれど、残念ながら休むは停止とは違う。あくまでエネルギー効率を低く保つだけであって、減りゆく熱の放射を止める事が出来ない。
 とにかく火を燃やす。
 するとどーしても、燃えカスが出る。
 それを体内に貯め込んでいてもどうしても、たまる一方で完全消滅とはいかない。むしろ周りから取得してばかりでは、いつか周囲に取るべきエネルギーに元が無くなってしまう。

 よって、不要なものは排出し世に差し戻す。

 …これらはごくごく当たり前に繰り返されていて、たとえそうなのだと頭で理解していなくても『本能』として様々な減少により自動的に行われるように刷り込まれている…ああ、そうか。

 本能は生物に元から備わる、という意味なんだ。
 デフォルト、という事でもあると。

 ならば後天的に開花させた能力は決して『本能』じゃぁないって事になるのかな。

*** *** ***

 たとえば言語。

 生まれながらにして言葉を話す者はいない。

 人の使う言葉とは、意味を極めて後天的に与えられた『発音』ある…と。
 在る程度の法にのっとって、それらに律された不自由な代替的意思疎通機関だ、とも言えるかもしれない。

 言葉を知らない赤子が、ご飯やら何やらでグズって泣くその『音』に、本来意図はない。と、思う。
 おなか減ったーと言えないからダー、とか言っているわけじゃないだろう。赤ん坊には初めから自身の状態を理解しうる『本能』があるとは思えない。というか、それはようするに本能じゃないだろうと。むしろ、ヒトの本能というのは不愉快に対して自分も共振し不愉快な行動を起こすという事の方だろうと思っていたりする。
 自分の何らかの不調が、一体何を原因にして起こっているかなど赤ん坊に理解できているとは思えない。それは、その後成長とともに自分自身の事として一つ一つ発見する事によって意味づけされていく事だと思う。
 赤ん坊に初めから意図がある、と勘違いするのは、言語を後天的に知り意味を与えする事で理解する作法に縛られた後天的『ヒト』特有の現象だろう。

 え、別に後天的なものが悪いとかそういう話じゃないですよ?
 まるで悪いように『感じる』というのなら、それは恐らく本能的なもので後天的な感覚とは異なるのだろうとか思う。
 私は別に後天的『ヒト』ようするに…言葉を操り(時に余計な)知識を得て、あらゆる物事に意味を問い関連性をバイパスさせる…後天的『人』というものは、時に本能を封じようと努力し(まぁ、大抵屈するわけですが)封じるために理性を成長させ、本能的に感じた敵意を封殺し『いや、他に何か意図があるのでは?』とさらなる理解を求めようとするものなのだろう。

 この話が面白くないと思ったら発作的にブラウザを閉じていい。

 で、そうやって閉じられた事に私は目くじらを立てない。

 時に後天的ヒトは理性を大きくし本能を封じるから、本能によって動きそれらに極めて従順で自制の努力(その人にとってはそうなのだが、他の人にとっては割と理解不能だったりもする)を怠ったヒトの存在、ひいては行動が『本能的に』カチンと来るのかもしれない。
 そういう矛盾を抱えるのがヒトの可愛らしい所だと思っている。というかまぁ、必死に本能に抗ってる感じが愛らしいじゃない。自分もそうやってアウチ!とか戦ってみたりするわけだからやっぱり、笑ってごまかしたいじゃない 笑

 もし後天的ヒトを装うのであればそこは、もちろん、いいんだよグリーンだよと相手の行動のすべてを自由に保障し、にこやかに応対せねばなるまい。
 私は後天を目指しているのか?もちろん理想的には先天であるより後天になるたいという願望はあるようにも思う。それは、知ってしまったからという原点から始まり『逃げない』という矜持によって支えられ、ここまで来たらトコトンやってしまえという遊び心を燃料にしている所がある。
 そうしたうえで先天的な感覚を再発見して今に至る。
 数学では図る事が出来ない感覚、クオリアという揺らぎを察知し、それは何だろうという事を考えるも答えなんか出そうになり。じゃぁ答えはいらねぇや。だって世の中答えがあるとは限らねぇジャン、という一つの境地によって原点回帰した気分に陥ってみる。

 そういうのは多分、人それぞれなのだろとも思っている。

 …後天的ヒトである事は、時にそうやってワケワカメだ。

 ようするにヒトは先天と後天の間をブレブレしているのだろう。で、そうやってブレてる感覚が『人間らしい』という事なのだろうとも思ったりする。

 完全に先天の人を見たら『こいつもしかしてロボットじゃね?』とか『もしかしてバーチャル存在なんじゃね?』とか『人間じゃなくね?』とか思ったりするのもまた『先天』の感覚だろう。
 逆に先天すぎるとその人は我が儘とか自分勝手を通り越した存在になり『こいつオカしい』というレッテルを張られてしまう事にもなるのだと思う。

 しかして、それはブレてる人間大多数が、大多数であることを良い事に『ワレワレハ、ニンゲンダ』と主張しているにすぎない非常に不完全な一つの『答え』であるかもしれないし、もちろんそーじゃないかもしれないわけで。

*** *** ***

 言葉や文字は、内なる自分を表現し伝える為に『ある』か。

 間違いなく文字言葉機関を通した感情は、翻訳間違いを起こしている事が大多数であるように思える。
 巧妙な人など翻訳間違いする事を良い事にわざと嘘をつくし、平気で逆の事を表現してみたりする。
 あえて本心を偽る事も許される。

 言葉や文字は嘘をつくために開発された、間違う事前提のイカした代替意思疎通装置のようにも思える。
 とすると多分、本当の事を本当に正しく他人に伝える術など世の中には存在しないのかもしれないと思ったりする。

 それがゆゆしき事態だとは今さら思わない。

 上手く通じないからこそ、あれこれ悩んでブレてる感じが愛らしい。
 通じないから、どうにか通じる手段はないものかと、文字や言葉以外の何らかの表現を使ってみたりするのだろうとも思う。

 私の場合は文字媒体でなんだかよくわからない夢物語や、このゴミ埋め立てブログの駄文であったりするし、時にマンガや絵だったりもするだろう。

 ところがそれらに、どんなに正しい意図を盛り込んでも…他人がそれを常に100%で理解し、受け取ってくれるとも限らない。

 まぁ、ほんの数%でも私の拳が貴方に届くならそれでもいいか。

 本能を捨て、無意味に連打する事は止めて欲望を抑え込み、満足の度合いが低くなってる気もするがもはやそれ以上を求めた所で『その先どうなる』を考えてみてもさほど何が変えられる訳ではないと考えてしまってこれ以上を望まない思考になってますね、なんだか面白味のないヒトのようにも思えてきた

 後天を目指す以上、先天である事は封殺していく必要にあるよなと、言い聞かせながら日々生きているのかもしれない。

 時に先天的な人を見て、それをウラヤマシイと感じる事もあるだろう。間違いなく在るだろうと思う。
 でも今さら引き返せないんだと、とにかくただ羨望の視線を投げかけてそいつはそいつ、俺は俺として前向いて先に進むのみ。

 そんな先天的ヒトの本能はどこに?
 いや、そう言う人の本能って多分どこまでも詭弁だ。

 きっと何時でも本当の気持ちなどさも、無かったかのように封殺して先天的ヒトとして代替意思疎通装置を駆使し存在をしている。

 無かった事にする、というのは某小魚の箱で某作家が組み立てている通り、割とマイナスな事かもしれない。

 無かった事にするあの人のセリフはいつでもカギカッコでくくられている事からしてやや共感するところがある。

 人というものはマイナスであろうとプラスであろうと、結局のところブレてるものであってそれがノーマルであるだろうとも思うし、アブノーマルかそうでないか、などは自分自身では判断仕様が無い事だろう。だから、自分はきっとどっちだろうとか、あっちがいいとか、そう思う事は『先天』だ。故にあのマイナス君は自分がどうであるかなど自分自身で理解はしていない、最低限、そのフリをし通すだろうと思う。

 多くは色々迷わなくていいのに迷っててそのブレが何らかの形で漏れ出ている。

 例えば、こんなふうに、か。

 才能は備わるものではなく開花するものなら、やはり後天的であるようにも思う。
 本能のままを歌うなら考える事は止めて、ついでに周りの事を気にする事もしないだろう。そも、そういう意図がアタマに無いと思う。

 後天には難しい事だ。

 本能を封じた先に結局周りの事など気にしなくなる所に着地する事もあるけれども。
 それはまぁ、先天のソレとは程遠い、また違ったものであろうかな、と。


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